2005-11-24

[][]セオリーに則って作っても

http://www.0600design.com/archives/2005/11/post_152.html#more

確かにゲームデザインには「セオリー」と云えるモノがあるのですが、とは云え、セオリーをいくらツギハギしても「ゲーム」にはならない。アイデアを篩い分ける「ざる」はどこまでいってもざるであり、誰かが生んだ「種」(あれれ氏の云い方では「卵」)がなければゲームは生まれない。種があってこそ、それをセオリーによって「磨く」コトが出来るワケです。

スペルチェッカーには小説を書くことはできない。綴り間違いや文法の誤りを指摘して文章の完成度を上げることに貢献はできても、それ自体は何か新しいものを生み出すことはできない。もし文法に則って、セオリーに従うだけで良いものができるなら世の中はもっと素晴らしいものであふれているだろう。

また、かならずしもセオリー通りに進めることが良いわけではない。セオリーから外れているものの指摘やそれを一般的によく見られる形にもっていくための提案なら誰にでもできるけれど、意図的に何らかの効果を狙ってセオリーから外している部分や、根本的にセオリーなど気にせずに作られた真に創造的なものに関して、その断片を見ただけでは理解できないこともある。

これまでの経験上、企画草案段階で評価される企画は普通の企画。

けちょんけちょんに言われるようなものの方が新しい。

たくさんの人に驚きを与えられるような大きく育つことのできる「種」を作れる人は多くはない。学習によって誰にでも習得できるセオリーとは違って、そのような種を作る能力は真似しようとしても簡単に身に付けられるものではない。そういうのが一般にいわれる「才能」と呼ばれるものなんだろうか。

時々、自分はただのスペルチェッカーなんじゃないか、と思うこともある。まぁ、今はとりあえず自分にできることをできるようにやっていくしかないわけだけど。