2009-11-29

井上明人「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」 井上明人「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 井上明人「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」 - Nao_uの日記 井上明人「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

とても興味深い考察。

最近こういうことを考える機会が非常に少なくなってたので、読みながら考えたことを2点ほどメモ。

まず、「にらめっこをコンピュータと遊ぶことが難しい理由」について。

『にらめっこ』をコンピュータと対戦することが難しいのは、たとえば似たジャンルの『2人の人が向かい合って、長く息を止めていたほうが勝ち』というゲームを考えたときに、コンピュータはその対戦相手としては不適切である、のと同じような理由でそうなっているのではないか、と思った。

『息を長く止めていたほうが勝ち』というゲームの勝利条件には、「人間は永遠に呼吸をとめることができない」という生理的な要因が絡んでいる。少なくともコンピュータは呼吸をする必要がないため、まっとうなやり方ではこのゲームは成立しない。

『にらめっこ』の勝敗条件もまた、「人間は笑いをこらえることができない場合がある」という生理的な要因に大きく依存しているため、「呼吸をしない」のと同じレベルで「笑うことが無い」コンピュータとの対戦は素直な形では成立しない。

もしいつの日か、人間と同様に呼吸をし、笑いをこらえることができないコンピュータができたときに、はじめてコンピュータはこのようなゲームの対戦相手になってくれるようになるのではないか、と思う。(身体性に依存した問題?)

また、「ゲームであること」と「学習・適応」の問題は分けて考えたほうがいいのではないか、と個人的には思っている。

昔のログより。

  • 「3目並べ」->「5x5マスのリバーシ」->「8x8マスのリバーシ」->「チェス」->「将棋」の順でゲームの複雑性が増え、ゲーム性も増しているように感じられる。
    • だからといって「複雑性の向上=ゲーム性の向上」ではない?

  • 「将棋」->「中将棋」->「大将棋」と進むにつれてさらに複雑度は向上するけれど、それによって「ゲーム性が向上した」とは感じられない。この違いは何なのか?
    • 単純すぎるとゲーム性は低下する?
    • 複雑になったからといって向上するとは限らない?

  • 「取り得る全手を検索すれば最善手が存在する」という観点から、計算量の多寡はあれどコンピュータから見れば上記のゲームはどれも本質的には同じだという見方もできるが、少なくとも人間はそうは感じない。
    • その境目はどこにあるのか?
    • 「ゲーム性」の多寡を考える場合「人間の性能」という要素も考慮する必要がある?
    • 人間性能を考慮する場合、誰を基準にすべきなのか?

この世界には「単純なゲーム」と「複雑なゲーム」があり、遊ぶ人の知能レベル(?)に依存して「楽しめるかどうか」が変わってくる。

ここではすべての「完全情報一人用ゲーム」は本質的には『ハノイの塔』と同じであり、すべての「完全情報2人対戦ゲーム」は『3目並べ』と同じようなもので、ただ複雑さのレベルが違っているだけである、と考えている。

たとえば、幼稚園児にとっては単純な『3目並べ』であっても、大人にとっての『どうぶつしょうぎ』や『チェッカー』などと同様のエキサイティングなゲームとして遊べる。

しかし、コンピューターから見れば完全に解析可能な『どうぶつしょうぎ』や『チェッカー』は、大人にとっての『3目並べ』と同様、もはや遊ぶに値しない「単純すぎるゲーム」になってしまう。

ゲームの最適な解法がわからなくて試行錯誤を繰り返している間は、そのゲームを楽しむことができる。

しかし、ひとたび完全な解法を把握して常に再現可能な状態になると、それ以降はただ間違えないようにルーチンワークをこなすだけの状態になってしまい、その人はそのゲームを楽しめなくなる。

「単純なゲーム」に近ければ近いほど、早い段階ですべての解法が見通せてしまって、楽しめなくなる。

逆に、レベルが足りない人にとっての「複雑すぎるゲーム」は、難しすぎて楽しむことができない。

上記のような仮定から、「楽しめるかどうか」は「遊ぶ人の性質に由来する状態」であって「ゲームそのものの性質」ではないので、この2つは切り離して考えたほうがいいのではないか、と考えている。

少なくともラフ・コスターのモデルが指し示すものは「ゲームから得られるフロー体験」そのものであって、それ自体を「ゲーム」の定義とまで拡大解釈して話を広げていくのはいくぶん無理があるのではないかな、と感じた。

大雑把な「遊び」というくくりの中に、「ルールと勝敗/終了条件*1」が定義された「ゲーム」が存在する。

でも、その行為を行って「楽しい」と感じるかどうか、は、それが「ゲーム」であることとはまた別な話なのではないか、と。そんな風に思った。


堀井雄二氏が“師匠”小池一夫氏とドラクエ,キャラ作り,そしてゲーム業界について大いに語る 堀井雄二氏が“師匠”小池一夫氏とドラクエ,キャラ作り,そしてゲーム業界について大いに語る - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 堀井雄二氏が“師匠”小池一夫氏とドラクエ,キャラ作り,そしてゲーム業界について大いに語る - Nao_uの日記 堀井雄二氏が“師匠”小池一夫氏とドラクエ,キャラ作り,そしてゲーム業界について大いに語る - Nao_uの日記 のブックマークコメント

 ここで,堀井氏は重要なポイントとして「いかにプレイヤーを能動的にさせるか」を挙げる。

 さらに堀井氏は往年のファミコンソフト「頭脳戦艦ガル」の例を挙げた。当時堀井氏は,実のところ,このゲームをどうにも面白いと思えなかったそうだが,一緒に仕事をしていたチュンソフト中村光一氏が一生懸命遊んでいる姿を見て「どんなゲームでも,プレイヤーが能動的に遊ぶことができれば面白くなる」と実感したという。

同じ内容のゲームであっても能動的に遊ぶかそうでないかで「楽しさ」はまったく違ってきてしまう。

どうやって能動的に「遊びたい」と思ってもらう、のか。

*1:『トモダチコレクション』とか『ラブプラス』などのゲームには明確な勝敗/終了条件が存在していない。通常のゲームよりも「ごっこ遊び」に近い境界例