■ [映画]「この世界の片隅に」
「この世界の片隅に」を見てきた。時期的に映画館で見るのは半ば諦めてたんだけど、館数を増やしながら順調に興行収入も伸びているようで、上映中に見に行けて本当によかった。スタッフロールは数が多すぎて自分の名前は見つけられず。
序盤から時間をかけて丁寧に日常生活を描いているおかげで、その日常が少しづつ変わっていってしまう様子が実感を伴って感じられるような、これ以上ないくらいによくできた原作の映像化であったように思う。りんさんのエピソードを含む完全版も見たい
■ 「ここまで調べた「この世界の片隅に」」のメモ
-http://game.g.hatena.ne.jp/Nao_u/00140720
2014年のトークイベントに行った時のメモ。監督の話を生で聞いて、原作がある作品のアニメ化なのに想像以上に綿密な資料収集や取材の過程を聞いて、え?ほんとにそこまでやるの?と圧倒された
「このマンガは実在しないすずさんを描いているけれど、この絵も外側も書こうと思えば書けるんです。じゃあどこまで我々は拡張して行けるんだろうか、と考えてしまいます。たとえば…」
「「冬の記憶」の最初のコマ、映画の絵は横に広いのでこのコマに入ってない左右の風景を描く必要があるが、そこに何があるのかがわからない。なので、これがどこだったのかをちゃんと確かめて描く必要がある」と、現在のこの場所がどうなってるかわざわざ現地まで調べに行って、コマの外側を描いてる
『「原作は現実と地続きになってる」「ほんの少しでも何かが描かれている時に、必ずそれに対して現実の答えみたいなのがあって、それを紐解いているときりがなくて、紐解ききる事もないんだけど、その不思議な魅力に捉われてしまってる」』
普通に考えればどう考えてもオーバースペックな、ほとんど狂気に近いようなこだわりの産物ではあるけど、そうさせるだけの深さが原作にあったためにそれを調べきらないまま映画にするのは冒涜に近いと感じられたのかもしれない。そのようなこだわりが結果に繋がったのは、とても喜ばしいことだと思う
ものを作る過程での「正気にては大業成らず」はある種の真実であるように思う。見てる人に伝わるかどうかわからないこだわりはコストを考えれば慎むべきという考え方もあるけど、それが作るものの核心に迫る部分であれば、単体では伝わらなくとも些細な違いの積み重ねが大きな違いになることもあるはず
■ 『貯金ゼロ目前、食費は1日100円……苦境極まった片渕須直監督『この世界の片隅に』は、どう完成したか』
「当初の資金は自分の持ち出し…企画が成立するまでの立て替えですね。でも、限界があるわけですよ。何しろ、子どもの学費もありましたし」
今回そんなこだわりが結果に繋がったのは本当に素晴らしいことに思う。もともと原作のファンだったので軽い気持ちでクラウドファウンディングに応募したけど、トークイベントに参加してその熱意に圧倒され、実際に出来上がった映画も期待以上の内容に仕上がっていてすごくよかった