2006-04-09

集合的無意識からの発見 集合的無意識からの発見 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 集合的無意識からの発見 - Nao_uの日記 集合的無意識からの発見 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

はてな」や2ちゃんねるは、jkondo氏やひろゆき氏が発明したものだろうか。それとも発見したものだろうか。

何も実体が無い所に、彼らが何かを一から創造して、そこに人々が引きよせられたようには見えない。そうではなくて、「はてな」的な何か、「2ちゃんねる」的な何かは、もともと存在していて、jkondo氏やひろゆき氏がそれを発見したように感じる。彼らは人が共感を寄せる中心となるポイントに近い場所を発見し、毎日毎日、そのポイントを少しづつ修正しながら、真の「はてな」、真の「2ちゃんねる」をたぐりよせているようだ。

同じような意味で、ネットの中には多くの「発見」があったし、これからもたくさんのサイトが「発見」されて行くだろう。

そのような「発見」されたもの、「発見」されつつあるものは、「発見」される前には、どこにあったのか?

よくモーツァルトアインシュタインの天才性の違いとして言われることに、「アインシュタインの方程式はアインシュタインがいなくてもいずれ誰かが同じものを見つけただろうけど、モーツァルトの曲はモーツァルトがいなければ同じものは決して生まれてこなかった」、というものがある。科学者の仕事である前者は、既に存在していたものを「発見」したのに対して、芸術家の後者は、無から新しいものを「発明」した、という部分が違う。

ソフトウェアを作る、という行為はどちらかというと「発見」ではなく「発明」に近いものであるように思えるけれど、そのソフトウェアが社会の中でどのような役割を果たすのか、ということを考えたときに、その境界は曖昧になってくることもあるのかもしれない。新しいソフトウェアの「発明」ではなく、集合的無意識からの「発見」に。

2ちゃんねる」や「はてな」、もっと大きく見て最近の流行である「Web2.0」的な流れなどの存在は、特定の誰かが考え付かなくてはこの世の中に存在しなかったものなのか、それとも最初に思いついた人がたまたまjkondo氏やひろゆき氏だっただけであって、その人たちがいなくても少々時期は違えども、このようなものが生まれてくるのは歴史の必然だったのか?

P2Pの未来を見据えてそれを効率よく使えるような実装を提供した47氏が逮捕され、社会からは「P2Pは悪」とみなされる風潮ができてしまったけれど、途中経過はどうあれ最終的にはP2P技術が広く使われるようになっていくであろうことも、何らかの必然なんだろうか?

おそらく、「破滅を引き起こした張本人としてスケープゴートになる人」の系列には、ユングアインシュタインに並んで、ネットに関わる大物も誰か名をつらねるだろう。

集合的無意識」に接することは時として非常に危険を伴なう。ネットは、そういう危険な領域を解放しつつあると思う。「もしも神がサタンを自分の息子として意識化しないなら、神自身の暗い側面は」ネットの中に現れてくるに違いない。「神はこの恐しい仕事を抑圧したくて」匿名掲示板を生むだけのテクノロジーを長い間抑圧してきたのだと思う。きっとブログなんていうものは「神に呪われている」はずだ。

このまま技術の進歩が進めば、情報流通のコストは限りなく0に近づくまで低下し、ありとあらゆるデジタル化できる情報は検索とコピーの対象になる。

インターネットの普及は15世紀に印刷技術が発明されて以来の大きな変化を生んでいるのだろうけれど、今あるような技術的な制約が全くなくなり、完全に理想的な「できること・やりたいことが何でもできる世界」になったとき、社会はどのように変わるんだろう?

ここまで考えてふと、以前に書いてローカルに保存してあった文章を思い出した。以下、そこから転載。

「あなたの仕事が一歩一歩確実に世を終わらす 」 「あなたの仕事が一歩一歩確実に世を終わらす 」 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「あなたの仕事が一歩一歩確実に世を終わらす 」 - Nao_uの日記 「あなたの仕事が一歩一歩確実に世を終わらす 」 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

最近のWeb関連の技術や環境は止まる所を知らずに変化し続け、新しくて面白いものが日々生まれてきて情報の流通・陳腐化がどんどん加速している。あまりの変化の早さに、たとえ半年先のことであっても何が出てきてどうなるのかを予測することは難しい。

Webに限らずあらゆる技術や社会・文化などの多くのものが同様に加速しながら変化を繰り返してきていて、この加速は今後も止まることはないのだろう。Geekな人間にとってはとても面白い状況ではあるものの、この流れで進んでいくとはるかに遠い未来にどんな場所に行き着くのだろうか、などと考えてみると、決して幸せな未来像ばかりがあるとは限らない。

フランク・ハーバート『鞭打たれる星』(岡部宏之訳、創元SF文庫)にサボタージュ局(サボ局)という超国家的機関が登場する。

 ずっと昔、何世紀も昔に、《良い事をしたい》という強迫観念を抱いた知的生物集団が、政府を乗っ取った。その強迫観念の裏側にうごめく複雑さ、罪悪感、自己懲罰などに気づかぬままに、彼らは政府から事実上すべての遅延や、繁文縟礼〔レッド・テープ〕を除去してしまった。知的生物の生活を不器用に支配していた大きなマシンが、いつのまにかトップ・ギアに入って、ぐんぐんスピードを増していった。いろいろな法律が発案され、その時間内に通過した。特別会計支出予算案がまたたく間に現実のものとなり、二週間で消費された。そんな必要があるとも思えない目的のための新局が、つぎつぎに生み出され、まるで気違いきのこのように増殖していった。

 政府は調速機〔ガヴァナー〕のない巨大な破壊車輪になってしまい、気違いじみたスピードで転げ回り、それが触れるあらゆる場所に、混沌を広げた。

 絶望の中で、一握りの知的生物たちが、その車輪のスピードをゆるめるための、サボタージュ部隊というものを思いついた。流血や、その他いろいろな程度の暴力行為があったが、結局、車輪のスピードはゆるめられた。やがて、その部隊が局になった。そして、今日存在するものが、とにかくこの局なのである――それ自身のエントロピーの回廊の中に向かって進んで行く一つの組織、暴力よりも微妙な牽制を好むが……必要が起こればいつでも暴力を振るう用意のある知的生物のグループだ。(pp.21-22)

 つまり、サボ局の目的は構造改革を阻止することにある。その理由は急激な構造改革は有害だからだ。

逆に仕事のできる有能な人には、終末をぐんぐん繰り上げる機能が本質的に実装されていて、それを回避することは決してできないということになる。あなたの仕事が一歩一歩確実に世を終わらす【黙示のつもりのおれカネゴン】。

一度回り始めた歯車は止まらない。人間はいい事でも悪いことでも、可能なことであれば何でもやってしまう。最近の技術の進歩や変化の早さを思うにつけて、それが本当にやったほうがいいことなのか悪いことなのかわからなくなってしまうこともある。

自由にできることを何でもやってしまうとあらゆる秩序が破壊され、混沌とした世界になってしまうのか、それともその中から前とは違った形であるにせよ何らかの秩序が生まれ続けてバランスが取れるのか。どう変化するとしてもどうせ「なるようにしかならない」のだろうから、どういう結果になるにせよ、やれることはやれるだけやってみる方が面白いように思う。

あと長くても残り60年程度の、自分の生きていられる間に社会はどのように変わって、どんな面白いことが見られるのだろう?

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ちょうどいいタイミングで面白い思考実験を見つけた。上で考えていたようなことの一つの答えであるように思う。

「この社会のあり方にもっとも大きな影響を与えるテクノロジーは何なのか」ということの捉え方次第では、想像できる未来像もまた変わってくるのかもしれない。