■ 『テレビゲーム解釈論序説』と社会学の役割
『テレビゲーム解釈論序説』を読んで他の人がどのような感想を持ったか気になったので少し検索してみた。
みい
『frenchballoonさん。いつも本の紹介楽しみにしてます。
実は今回、初めて2冊まとめて(『呪いの博物誌』と『テレビゲーム解釈論序説』)購入したので報告したくなりました。
「テレビゲーム解釈論」は、なかなかの名著だと思いました。面白いです。
正直、ゲームへの見方が変わりました。下の子(小3)がゲーム狂なのですが、
それには私の責任も大きいと反省しました。ゲームを最初から拒絶するのではなく、
肯定的にとらえた上で危険と思われるものを子供と一緒に考えていく(リテラシー
を身に付けさせていく)。そういう親になろうと思いました。
おそらくゲーム学会的な範囲での読み物だと思いますが、これは親(大人)の
これからの必読書でもあるかなぁと。なかなか考えさせられる本でした。
これから「呪い」の方を読みます(^ ^;)』
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frenchballoon
『みいさま、コメントありがとうございます。身近にテレビゲームがないのであまり気にしたこともなかったのですが、自分にとってのゲームというと「時間を浪費させられる」「製作者の手のひらの上で踊るのは気が進まない(RPG等)」といったイメージです。ゲームそのものは創造性を持つのだろうけれど、ゲームをする人間が創造的になれるか?みたいな計算をしてしまうところが我ながらせこい。本に対しては、無駄であることに寛容なのに。
お子さんがいらっしゃると、自分とは無縁のはずのものと向き合う機会がたくさんあるのでしょうね。「この本ってどうなのかな?」と半信半疑で本を紹介しては、「はてな」での評判次第で読んだり読まなかったりするへっぽこ紹介者ですが、今後も感想いただけると嬉しいです。
08/13の日記で、「テレビゲーム」関係の本をまとめてみました。よかったらご覧になってみてください。』
- [...な本]テレビゲーム(http://d.hatena.ne.jp/frenchballoon/20050814#1123983414)
M&K
『テレビゲーム解釈論序説、読みました。
それにしても作成していただいたゲーム関連書リスト、こんなにあったのかと思うほどすごいですね。
仕事柄、これらほぼ全て目を通してますが、さらにすごいのは、心理学的見地から書かれた「テレビゲームと子どもの心―子どもたちは凶暴化していくのか?」(2004)と経済学的見地からの「ゲーム産業の経済分析―コンテンツ産業発展の構造と戦略」(2003)くらいしか学術的なものは見当たらないことですよね(後者は作成していただいたリストにはないようですが・・・)。
それを考えるとやはり、人文学的な学術書としては海外はわからないのですけど日本では初といえる「テレビゲーム解釈論/アッサンブラージュ」は本当に貴重な書だと思います。
私の考えからすると、学術的かそうでないか、あるいは学術「風」であるかの線引きは、論稿が明らかにしようとしてる目的が明確であるか否かで、さらにそれを一貫して積み重ねているかだと思います。
よく、学問的に書いた<読み物>がありますが、あれらは「難しく考えてみるとこんな感じですかね?」というような「お遊び」であって、お遊びだからこそ、いちいちそれに目くじらをたてる必要もないわけですが、例えば「テレビゲーム解釈論」は、どの章も明らかにしていこうとする目的が明確であり、そのために研究方法(手段)もはっきりと提示されている、もちろん、それに則った調査が行われている。
その上で論が積み重ねられているという点において、私はテレビゲームの本格的学術書だと認めることができると思っております。
私は十数年学問(社会学)で食べてきましたが、この著者のような視点が私には欠けているなと大いに勉強させてもらった書でもありました。寄ったついでに思わずコメント。』
「学術的に大いに意義がある」「ゲームへの見方が変わった」などの感想も多いようだ。小さな子供を持つ親などの普段自分ではゲームをしない層の人がこの本を読んでゲームに関する理解が深まった、というような感想を見て、もしかするとこういうのが社会学の役割なのかもしれないな、となんとなく納得。
「社会学」というあまり聞き慣れない学問分野について興味がでてきたのでGoogle先生にお伺いを立ててみると「社会学感覚」という1992年に発行された社会学の入門書がWeb上に転載されているものが見つかったので、一通り目を通してみた。入門的な内容なので読みやすく、自分のような門外漢の人間でも「社会学とはどんな学問なのか」ということの概要をわかりやすく知ることができた。全体的にとても興味深い文章が多かったけれど、その中でも「社会学感覚12 ジャーナリズム論」は特に印象的だった。
- 社会学感覚12 ジャーナリズム論(http://www.socius.jp/lec/12.html)
戦後のジャーナリズムにまつわる大きな事件の話題を軸に「ジャーナリズムとは何なのか」「ジャーナリストはどうあるべきか」という問題についてわかりやすくまとめられている。自分がジャーナリズムという世界についてほとんど知識をもっていなかったこともあって、とても興味深く読むことができた。その世界の中では常識となっているような内容かもしれないけれど、ジャーナリストを目指す人やその世界に興味を持った人が基礎知識を得るのにも有用であるように思う。
こういった啓蒙や啓発こそが社会学の役割であるのなら、社会学でゲームを扱うことも、ゲームをよく知らない人にゲームという世界そのものに興味を持ってもらい、その現状や問題点、社会に与える影響などについての考察を深めてもらえるきっかけになることができたのであれば、それは大いに価値のあることなのかもしれない。
また、「社会学感覚24 社会学的患者論」にも納得させられる部分が多かった。
- 医学パラダイムの成果と限界(http://www.socius.jp/lec/24.html)
「医学のパラダイム」と「福祉」の間に存在する、どちらからも抜け落ちてしまっている領域を社会学が埋めているという話。特定の専門分野からの視点では見えないが、それでも無視することのできない分野と分野のスキマを補完する役目を社会学が担っているそうだ。他にも音楽文化論や薬害・環境問題なども社会学の担当する分野であるらしい。こういう面で社会学は役に立っている、という実例を知ることができた。
その一方で、検索で出てくる中には社会学に対する否定的な意見も見受けられた。
社会学者の物言いへの不満として、「どうして最先端の状況について語りたがるのか? そんなものを追いかけるより、今そこにある最大の問題への処方箋を考えてほしいのに」という思いを抱いて10数年。ひょっとすると「別に、世の中をよくするための学問してるわけじゃないし。自分が興味を持っていることについて研究してるだけだよ」なのかもしれないけれど、なんだか釈然としない。
24 :OFW:2001/05/01(火) 22:41
>>21(教えてさん)
>そこが批判されているんじゃないの? 「だからどうしたの?」ってさ。
>「社会はこうなっているんですよ」などという言説は、何らかのニーズが
>なければする必要がないでしょ?
通常のニーズは特殊な利害関心だから、普通の人は社会そのものなど
には関心が薄い、と言うことをおっしゃりたいのらば、たとえば「現代人は
社会的関心が高い」と言われ、時の政治や経済に敏感なのは何故かな?
自分の個別的な生活が社会全体と如何に関係しているのかを知りたいと
いうニーズはとても大きいのではないでしょうか。それに対して的確な
回答を出せない学問の方に問題があるのではないかな?
つまり、対象を一般的、客観的に捉える科学の準則に従い、社会学は
社会を一つのモノと見るから、「社会はこうなっているんですよ」という
言説は、その中に生きている個人にとっては、ひどくよそよそしく響く。
それはその通り。社会学者もそのことを考えないわけではなく、そこ
から、「個人の側から社会を見よう」という方法論が登場するのでしょう。
しかしそこには、個人をいくら追っても<社会>は見えてこない、という
逆説がある。(たとえば、抽象的・近代的個人は社会を形成できない。)
それはむしろ<社会の総体的本質>を捉えそこねてしまう。
こんな単純なジレンマが社会学全体をおおっているのではないか?
「社会って何?」とは「個人にとって社会とは何?」にまで行かなけれ
ば、それこそ「何の役にも立たない」。そのことは、<個人の中にある
社会>に着目する必要性を示していると言えます。社会とはモノではなく、
個人の中にある生きた関係性であり、科学としての社会学は、社会の
外的・モノ的な関係(物象化された社会)とその内在的本質(生成する
類的社会)を共に見据える複眼(弁証法)をもって対象に迫らなくては
ならない、ということです。いかがでしょ?
25 :15:2001/05/01(火) 23:24
盛り上がってきてるね。
やはり、社会学のおかげで自分は(社会は)こんなに役立ったということは、
どうやらあまりないようで。
24さんの言うように社会を知りたいというニーズは極めて大きいはずなのに、
当の社会学はそれに充分に応えてくれてはいない。つまり役立たず。
ん~、そこまでは24さんの考えに賛成なのだが、
しかし、それの打開策が、弁証法をもって本質論へと迫ることかな…?
古い理論がダメだというつもりは毛頭ないけど、べべべ弁証法はないだろ…
またまた個人的に思うのは、やはり社会学の閉鎖性に問題があるのでは?
例えば24さんの文章は、社会学かじっている人には退屈なほど当たり前な事柄だと思うけど、
たぶん知らない人には「物象化された社会」なんて分かりっこない。
つまりさー、社会学には啓蒙者が足らない。
小林よりのりみたいに、バカな理論で一向に構わないから、
とにかくそれで大衆に社会学をマンガチックに広める人がいればいい。
社会学が役に立たないのは、その学問を実利に使ってくれる大衆がいないからだと思う。
社会学入門を読んだ後でもまだ「社会学は誰のためにあるのか」「何のための学問なのか」という疑問はぬぐいきれない。一部納得できる内容や、読んでためになったと思う部分もある反面、なんとなくつかみ所のない、「社会学者による社会学者のための」という内側に向かって閉じている学問であるような印象を受けることが多いように感じている。また、最近のWebをみていると社会学に期待される役割も時代と共に変わっていったりするのではないかと思うことも多い。
それこそ数十年前であれば、一般人には扱うことのできないような膨大な資料を元にたゆまない考察を繰り返す社会学者という存在が世の中を正しく(?)分析し、その成果を広く大衆に伝えることで社会に対する貢献を行うこともできたのだろうと思う。
しかし、現在ではWebやBlogの発達により、そういった「専門知」よりも「集団知」の方が役に立つ、という場面も増えてきているように感じている。そこそこ優秀な一個人が論文や本を書いて社会に与える影響よりも、ちょうど「伽藍とバザール」と似た形で、個々の優秀さでは劣る多数の人達が、相互作用を行いながら情報を交換し、発信しあうほうが世の中の役に立つ、ということもあるのではないか、と。
もちろん、その性質上「バザール」的なモデルには不可能で「伽藍」にしか為しえない事もあるだろうから、社会学の役割がWebやBlogに完全に取って代わられることはないだろうとは思う。しかし、たとえ専門知の強みや集団知では解くことの難しい問題*1などがあったとしても、その立ち位置は社会の変化や時代の流れによって変わっていくのではないだろうか?
このような社会の変化に対する社会学の役割を社会学の立場から見た文章を見つけることができなかったのは残念だった。もちろんちゃんと探せばあるところにはあるのだろうけど。
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上記は、以前に『テレビゲーム解釈論序説』の感想を書いた後に「文学社会学」などのキーワードでいろいろ検索したときのメモ。日記に上げるような内容ではないかと思って個人的なメモとしてローカルに保存しておいたのだけど、一部でまた大人気のない気持ち悪い議論(?)が起こりつつあるみたいなので、少々手を加えて今日の日記としてアップすることにしてみた。書評の是非はともかく、もしかしたらこの文章を書いたときに感じた「社会学」に対する疑問の解消の役に立つこともあるのではないか、などと思いつつ。