2005-09-05

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テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ

テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ

学術的にテレビゲームを解釈するという趣旨の書籍で、社会論、文化論、文学、物語論、死生学などなど幅広いテーマでに関しての論文が掲載されている。

多くの資料をもとにした分析は的確で、後半のサッカーの話など読み物としてもとても興味深く読めるいい本ではあるけれど、膨大ではあるもののほぼ既知の情報がひたすら並べられているように感じられた部分もあったためか「この論文を通して何を訴えたいのか」というのが見えにくく、少なくとも個人的にはこの論文に触発されてそこから広がる「何か」をあまり感じとることができなかった。

自分のように何もしてない人間が言っていいことではないかもしれないのだけど、全体につかみ所が少なく、一読者として「何のための論文なのか」「そこからどんな新しい知見が得られるのか?」という観点からみると少し物足りなさを覚えるところもあった。

たとえば、第9章の「サウンドノベル赤川次郎」ではゲーム化された赤川作品の内容や構成を詳細に分析し、赤川作品独特の表現をどうゲームに落とし込んでいるのかを考察したり、赤川作品の「速度」とサウンドノベルとの相性について検討を行っている。9章の内容を大雑把に要約すると、

  • 文庫本は1冊500円なのに、ゲームは1本5000円と約10倍の価格差がある
  • サウンドノベルでは原作にない新たな場面が存在したり、分岐ごとの状況説明が必要になってしまうために原作に比べて「冗長性」が高く、赤川作品特有の速度感を失速させてしまう
  • 繰り返しプレイによって同一の場面を何度も読まされる、分岐によっては伏線的な部分が意味を成さなくなるなど、原作の小説では起こらない新たな問題が生まれている

というような内容だった。このような考察から得られた結論と思われる9章の最後の一文を引用すると、

仮に、赤川原作のサウンドノベル作品が、読者を赤川作品の持つ速度ですべての傍系の物語をも駆け抜けさせ、多くの読者を挫折することなく、最後の特別編までたどり着かせる日が来たならば、それは、誰もがそこに赤川作品10冊分の価値を認める日を意味するであろう。

といった形でまとめられている。この考察はあくまで作品単体に関する分析にとどまっていてここからなにか新しい知見を得ることは難しいように思われるし、あくまで個人的な感想ではあるけど、幅広い資料をもとに詳細に検討がなされているものの、そこから得られる結論はさほど目新しいものでないものも多くあるために、なんとなくつかみ所がないような印象を受けることが多かった。

読み終えてみてなんとなく消化不良で何かが足りないような気がするなぁ、などと思いつつネットを見ていると、ちょうど同じようにサウンドノベルに対する分析を行っている「文章メディアの限界と可能性」という文章を見つけた。

映画、小説などのメディア論からはじまって、文字を使うことのできるメディアにおける速さと間、「ひぐらしのなく頃に」における時間軸の表現など、示唆に富んだとても興味深いテーマが散りばめられている。学術論文?とBlogの記事を比較すること自体が良くないのかもしれないけれど、上記のBlogの文章からは論文にあったような「物足りなさ」を感じることはなく、この文章からは各メディアの特徴や比較、今後の新しい発展の方向性について自分では考えたこともなかったような新たな視座を得ることができた。

そういった意味で、id:hiyokoyaさんの感想と近いものを自分も感じたのではないかと思う。id:hiyokoyaさんも嫉妬とか力学とかそういうものではなくこの本の純粋な感想として「結論が見えにくい」とか「どこに問題意識があって、どこにどういう議論があるのか見えない」というような印象を受けたのではないだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050822

アカデミズム的にはこれが正しい方向性なのかもしれないけれど、id:hiyokoyaさんのコメントの中にある「これが賞賛されているだけ、という文脈しか存在しないとすればそれはそれで「生産的でない」事態とも思いますし」という点に関しては自分も同じように感じた。

以下、上手く表現できないので少しキツい書き方になってしまうけれど、リンク先のコメントの議論をみて感じたこととしては:

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この本はおそらく文学作品の構造分析のような手法でゲームを分析しているのだろうけど、自分が文学作品の解釈という行為になじみがないせいか、この本が誰に向けて書かれているのかがいまひとつはっきりしないように感じられた。また、この本そのものでなく上記リンク先のこの本を擁護する立場の発言に対する感想として、極端でわかりにくい例えかもしれないけど国語のテストでよくある「このとき作者はどう思ったのでしょうか」という出題に対して感じる違和感と似た方向性の違和感を感じた。『人文系のアカデミズム的な分析』によって生み出されるものは何なのか。個人的には、後の人に影響を与え、より良い作品を生み出すための土壌を作り出せるのか?という点に関しては手放しに肯定できるものでないと考えている。素人の浅はかな考えだけど、このような手法は一つ間違うとごく狭い内側の世界にのみ向かった「解釈のための解釈」に陥ってしまう危険性もあるのではないかとも思う。ただ、読み手側の立ち位置や「何のための分析なのか」という根本の目線が違えばその必要性や解釈も変わってくるだろうから、自分の立ち位置の視点のみで考えても意味のないことだとは思うので、このへんについては社会学とか文化論とかの意味についてもっとよく調べてみてから考えたほうがいいのかもしれないけれど。

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・・・今回書いた感想を読み返してみると全体に「テレビゲーム解釈論序説」に対する苦言と取れる部分が多く、これだけではこの本の印象を悪く捉えられてしまいそうだけど、実際にこの本自体は「文学社会学」の手法に則ってわかりやすい論の展開がなされているそうだし、国内・海外の膨大な資料が丁寧にまとめられていて詳細な分析もおこなわれている、資料としても価値のあるいい本であることは間違いないと思う。バランスを取るために一応。とりあえず、日本語のまとまった書籍としては数少ないとても貴重な存在であるのは間違いないだろうから、こういった内容に興味のある人であれば一読して損はないように思う。このような分野の今後の発展に期待したい。