2005-08-08

情報化の進行とセカイ系情報化の進行とセカイ系化 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 情報化の進行とセカイ系化 - Nao_uの日記 情報化の進行とセカイ系化 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

昨日の話の続き。

この疑問に対する答えは、そもそもネットによって人々が放り込まれるような「世界統一ランキング」というものは、橋本さんの誤読の中にしか存在していないものだから、ということではないでしょうか。つまりそもそもの前提がおかしく、一般的にはネットワーカはそのような問題は感じていないので、MMORPG 以外の事例が集まらないのだということです。逆に MMORPG でだけは事例が集まってしまうのは、この(あえて書きますが)狭い分野でだけ、偶然例外的に「世界統一ランキングに放り込まれてモチベーションが失われる」という現象が起こってしまっているからではないかと思います。

現に「世界ランキングに放り込まれたからってほんとにやる気なくしたりするか?」という疑問を呈した記事がいくつかネット上で見られますが、実際そんな現象は起きていないのだから(MMORPG 界隈以外では)、これはまったく不毛な議論だと思います。私自身も、仮に世界ランキングのようなものに放り込まれても、自分のモチベーションは基本的にほとんど変わらないだろうと思っています(人間だからまったく変わらないとは言いませんが)。

http://iwatam-server.dyndns.org/column/68/より

現実にやる気をなくす例というのがほとんどゲーム方面に偏っている事実からも、「MMORPG」を「ゲーム一般」と読み替えれば基本的には言っていることは間違っているわけではないとも思うのだけど、「実際にそんな現象は起きていない」と完全に言い切ることもそれはそれでまた難しいことのようにも思う。明示的なランキングの有無や意識・無意識に関わらず、ほとんどの人が激しく流通する情報によって何らかの影響をそれなりに受けているんじゃないかな、と思うことは多い。とりあえず、これを読んで思ったことを書き連ねてみる。

小学生のころに学校で「高度情報化社会と情報の洪水について」みたいな作文を書かされたことがある。今の世の中、情報があふれかえっているのでテレビや雑誌から毎日洪水のように流れてくる情報に翻弄されないように、という趣旨の授業だったように記憶しているけれど、物心ついたころからテレビや雑誌は普通に情報源としてあたりまえに存在しているものだし、テレビが毎日情報を垂れ流すことなんて当たり前すぎて、これを指して「洪水」と呼ぶとは一体どういう意味なんだ?と子供心に疑問に思ったのを覚えている。

今にして考えれば、そういう環境で育った小学生にはあたりまえの環境でも、歳を取った先生から見ればあの時点でもすでに情報量が爆発的に増大していたように感じられたのだろう。「そういった状況に危機感を持て」というのがあの授業の主題だったのかな、と20年近くたってやっと腑に落ちる部分ができたように思う。

以前にも少し取り上げた「コラム: なぜ人はセカイ系になるのか」から少し引用すると、

と、セカイ系を批判してはみたものの、それはある意味しょうがないと思う。最近、みなセカイ系に近づいているんじゃないか。自分にだって思い当たるフシはある。

例えば、「俺は県の大会で一位になったんだぜ!!!」と自慢気に言う人を見かけたら、なんだかちっぽけな自慢に見えないか?実際のところ、県で一番というのはすごい事なんだが。自慢できる事の最低ランクが「日本一」になってしまっている。これがセカイ系である。

これは、テレビをはじめとするマスメディアの影響なんじゃないかなぁ。テレビが日本で一番すごい奴ばかりを取り上げて放送するから、我々の頭の中には日本一の奴しか思い浮かばない。逆に、身近な話題というと本当にくだらない身近な話題しかない。「日本一」と「身近」に二極化して、その中間がなくなってしまった。

http://iwatam-server.dyndns.org/column/68/より

上記のような情報量の爆発は、意識下でも無意識下でも人を「セカイ系」に蝕んでいく。これは「ネットが存在するから」という話ではなく、新聞や雑誌、テレビなどあらゆるメディアから得られる情報がどんどん刺激的になりつつ増大しているから、という一般的な話になってしまうけど。20年前の「情報の洪水」について作文を書かせた先生も、50年前の人に比べればずっとセカイ系寄りの存在だったろうし、今の世の中から見るとそんな20年前ですらずいぶん牧歌的に見えるくらいに情報量は指数的に増大し続けている。

そのような環境下で「県の大会で一位」の価値は相対的に下がり、少々のことではすごいと思えないひとは20年前に比べると増えているだろうし、このような傾向は情報化によってこれからも加速していくのだろうな、と思う。(加速するといっても無限に増大していくとは考えにくいので、もしこの傾向を減速させ得る要素があるとしたら、それは何だろう?)20年前にあの先生が感じていた違和感を小学生のころの自分が感じなかったのと同様に、現在の自分が感じているセカイ系的な違和感を今の小学生が感じていないのだとしたら、その子供が大人になったときに世界はどのように見えるのだろう?

最初から頂上が見えてしまうと、あまりの距離にやる気をなくしてしまう。以前は我々に遠くを見る力がなかったために、頂上を見ることができなかった。だから期待に胸を膨らませながら登っていくことができた。これができなくなったのは、望遠鏡が発明されてしまったせいだ。

とはいえ、望遠鏡はもう発明されてしまったのだから仕方がない。望遠鏡は見なければいいのだ。頂上に着くことではなく、登ることに意義があるのだから。

そういう傾向があるからといってそれが即座にモチベーションの低下に繋がるのか、というとそれはそれで別の問題ではあるので「時と場合による」って話になると思う。人にもよるし何のためにそれをやるのかという事にも依存するし、そういう影響を受けやすい分野と受けにくい分野もある。もちろん、他との比較がやる気に関わらないこともあるだろうし、世の中には「ランキングに放り込まれても自分は変わらない」と言い切れる強い人もたくさんいたりするみたいだ。

とりあえず、「一般的にはネットワーカはそのような問題は感じていない」という声が大多数なのであればそうなんだろう。きっと。

これに伴うまとまらなかった思考の過程 これに伴うまとまらなかった思考の過程 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - これに伴うまとまらなかった思考の過程 - Nao_uの日記 これに伴うまとまらなかった思考の過程 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

余談ではあるけれど、写真の発明とかテレビの普及、報道の国際化とかなどの影響で、「美人」の定義とかももしかしたら何十年単位で見ると徐々に「セカイ系」化してたりするのかな~、などと思うこともある。

  • みんなが常日頃からレベルの高いものを見慣れてしまった結果、「村一番の美人*1」の相対価値が下がる、とか。
  • Kuniさんの言うところの『身近な相手はライバル視して「競う喜び」を、手の届かない相手はリスペクトして「近付く喜び」を』みたいな使い分けが必要という話?
  • 海原雄山は世の中のほとんどのものを美味しく感じないので不幸だ』みたいな与太話と通じるところのある問題?
  • より良いものを「知る幸せ」と「知らない幸せ」
  • 良くなるベクトルの方向が一様ではない分野もある
  • セカイ系」化することで全体の平均レベルと最低レベルも年々上がっていたりする、みたいな要素もあったりもするかもしれない。これは分野に依存しない?

まぁ、自分のように視野の狭い人間が閉じた世界にこもって色眼鏡でみてるから世界がそのように見えてるだけ、という側面もあるだろうし、いろんな要素が絡む問題だからこうして単純化しすぎて考えることは危険なんだろうけど。まとまらない。だんだん何が言いたかったのかわからなくなってきた。「世界ランキング」の話をしてたはずなのに無意味に話を広げすぎて元記事とは論点がズレてるだけかもしれない。