2006-10-01

経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。 経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。 - Nao_uの日記 経済学者は進化理論家から何を学べるだろうか。 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

 というのも、伝統的な経済学が知性や相互作用の一般的な考え方をはるかにこえて、ずっとゴリゴリの極端な想定をしているというのはまちがいないことだからです。少なくともポール・サミュエルソンが 1947 年に Foundations of Economic Analysis を刊行して以来、伝統理論の圧倒的多数は、エージェントたちは知的なばかりでなく、最大化する――つまり、あらゆる代替案の中で最高のものを選ぶ、ということになっているからです。そして相互作用するときには、経済学者はかれらが均衡に到達すると想定します。各個人が、ほかの人々の行動の中で達成できる最高のものを実現している、と想定するわけです。

 さて、現実世界を見てみた人ならだれしも、これがあまりに極端で非現実的な想定だというのはわかります。わたしはちょうど、家の工事をしたところです、最終的な請求書を見ると、わたしが最大化しなかったのは痛いくらいはっきりしてます――わたしは工務店の最適探索を行わなかったんですね。残った仕事をする人を探そうとしたら、マサチューセッツでの好景気に見合うほど賃料水準や物価が上がっていないことがわかりました。だからだれも大工や左官をやってくれません――市場は明らかに均衡していないんです。じゃあ最大化と均衡というアプローチを離れて、もっと現実的なものを探したらどう?

実際の経済社会のエージェントたちは必ずしもその時点で最適な行動を取っているわけではないため、経済学は生物の進化理論と同様に考える必要があるのではないか、という話。

これを読んで思い出したのが、下記リンクの昔書いた文章。

コンピュータ上で複雑系や自然選択を行うようなシミュレーションを作ってあれこれと試していて感じたこととして、一般に急速に最適解に近づこうとする系ほど環境の変化に弱く、局所解に陥りやすいうえに小さな変化がきっかけで簡単に絶滅してしまいやすい。逆に、局所解に陥りにくい系は大きな変化が起こってもそれに適応できる可能性が高いものの、最適解に収束するのには時間がかかるし、最適解が見つかったときの全体のばらつきも大きい。

適応にはある程度の時間がかかる。そのラグが存在するために、よく教科書でみかけるような「兎と狐の数」が永久に振動しつづけるような現象が起こる。生態系とその適応地形は、ラグのために常にカオス的な振動・変動を繰り返し、特殊な場合を除けば一意の場所にとどまり続けることはない。生態系の中の生物が変わればそれに伴って環境と適応地形も変わり、両者はとどまることなく変化しつづける。

この世界は遺伝子配列の最適化問題を解こうとしているわけではない。様々なミームたちがその本能に従って自分の形を変えながら増殖しようと試行錯誤している過程で、たまたま適応度が高い遺伝子が環境と相互作用を繰り返しながら生き残るという現象が起こっているだけなのだろう。

自然選択というと常に唯一の最適解にむかって効率的に進みつづけるような印象を持っていたけれど、実際の世界は必ずしもその時点での最適の状態になっているわけではない。おそらくこの世界は神様か誰かが決めたパラメータをもとに、生態系の中の生物とその周りの環境・それに伴う適応地形がお互いにカオス的に変化しながらからみ合い、ある程度の揺れ幅を持ちながら半永久的にうねりつづけているような状態を繰り返しているのではないか、と感じている。

結局、経済も生物圏の進化もその実行過程ではおそらく何らかの大量のムダを孕んでいて、(そんなものが存在するのかどうかはともかく)「最適な状態」からある程度の距離を取りながら、時間軸で見ると変化し続けている最適解を中心に揺らぎ続けているような状態を繰り返しているものだと思われる。

結果的には最適化された状態に向かおうとする傾向があるにせよ、このようなものをモデル化するときに「最大化された値」に「均衡する」という仮定を置く場合には、それが現実よりもずっと理想的な状態である、ということを踏まえたうえでモデルを検討していかなければいけないのだろう。


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上記ページへのリンク元

包括適応度というのは、その個体の親戚の適応度の加重平均で、そのときの重みは血縁の近さに比例します (これを別の形で考えると、遺伝子はそれを宿した個体のことなんかおかまいなく、それ自体の適応性を高めようとして広がる、ということになります。

「包括適応度」という言葉の意味というか「利己的な遺伝子」ということばの意味について私は誤解していたようだ。これで誤解が解けた。

さて、面白いのはここから。

進化理論家の一般的な態度は、自然はしばしば驚くような道を見つけて、小さなステップを重ねたのでは到達できないと思われていたところにも行ってしまうようだ、ということです。

恐らくこれは何万次元という非常に自由度の大きな系では必ず成り立つんだと私は思う。

この事実に触発されて、私は社会の改良もプログラムの改良も漸進的過程でよいと考えるようになった。

複雑度の高いものに関しては「目の前のことから一歩づつ」改善しながら進むだけでも、いずれは質的転換をもたらすこともできるのではないか、という話の理論的裏づけ(?)。

こういったやり方ではどうしても時間はかかってしまうだろうけど、だからこそ「カイゼンは巧遅より拙速」に行うべきなんだろう。

進化理論を読んでわたしが見つけた真に驚異的なことは、進化が継続的なプロセスだなんてほとんどだれも言わない、ということです。むしろ、人々は現実に見えているものを完了したプロセスの結果として説明しようとします。

進化論が、進化の動的過程を議論しないで、進化の安定点について議論していると言うことね。

確かに、現在あるものは変わり続けている世界の途中経過だ、という視点は抜け落ちやすいような。「現状」というものは最適化が完了しているものではないはずだろうし。

適応までに時間的なラグが存在したり、外部要因や個々のパラメータに応じて適応地形が変わっていくような環境では、そもそも安定した均衡点など存在しない。

だからこそ、生き残るには環境の変化を見て、その状況にうまく適応していくことが大切になる。

そしてこの後の部分で安定点(=均衡)がフィクションであるけど分かってやっているという話がやってきて、そのあとこう来る:

この種の便利なフィクションのでっちあげは過去のもので、いまや複雑な動学をコンピュータシミュレーションで観察できるじゃないか、と言う方もいます。でも、その手のことをやってみた人なら——このわたしも大量にやってきました——いずれは、最大化と均衡に基づく紙と鉛筆の分析というのが、いかにすばらしいツールであったかというのを認識するに到ります。

こういう所も物理学と同じだ。

物理学も、新しい問題に出くわしたら、まず安定点や可解になる点を探す。それは余りにも限定されていて常に現実を反映しているとは限らないことは承知の上で。次に安定点の周りに摂動をする。

それが出来たら、simulationをやるけど、やみくもにやると意外なほどに得るものは少ない。

素人考えなので何か誤解してるかもしれないけど、シミュレーションを行うためには何らかのモデル化が必要で、大抵はそのモデル化の過程で恣意的に何かしらの最大化と均衡を仮定して、そのように動くであろうモデルを組み立てることになる。そして、シミュレーションのそうでない使い方は非常に効率が悪い、ということだろうか。

可能な限りパラメータやモデルの恣意性を排除するようにシミュレーションを組み立てようと思ったら、モデル化の際に前提として仮定するものをできる限り減らしていくしかない。それがあまりに行き過ぎると、自分が何を作ろうとしているのかわからなくなることはある。

このような方向性の行き着くところは素粒子レベルから地球環境シミュレータを組み立て、その世界の上で進化したAIが経済活動を行う、みたいな話になるんだろうか。仮にそんなシミュレーションができたとして、そのようなものの動作結果から何が得られるのかはわからないけど。それでも娯楽としてなら十分アリかも。