■ 下流食いビジネスと、俺たち。
スタンドアローンのゲームでは、レベルがカンストすればそれ以上やることがなくなり、作り手側もそれ以上遊ぶことを求めない。むしろ新作を買ってもらいたいので、一本のゲームを年単位の期間で遊び続けられるのは困るくらい。
また、最近は特に、一部のゲームの除けばクリアまでに何十時間もかかるゲームはどちらかというと敬遠される傾向もあるように思う。
一方、オンラインのゲームは無理に間延びさせてでも長期間続けてもらって、どんな手段を使ってもいいから興味を引き続けてできるだけ多くの人に接続してもらい、その結果として一円でも多く課金してもらいたい、という事情がある。
そのあたりはほんとに根本から求めるものが違うんだなぁ、と再認識。
基本無料ゲームの課金の何が怖いって、「かけられる金額に上限がないこと」が一番怖い。少なくとも自分にとっては、この手のゲームに課金するのはギャンブルに手を出し、2倍づつ掛け金を増やしてくマーチンゲール法で賭けていく、みたいなのと同じような怖さがある。
可能な限り無課金でできるところまで遊んでみようと思っていたのに、結局いくつかのポイントで誘惑に負けて課金してしまった。
いったん課金してしまうとどこかで歯止めをかけないと、ずるずると時間だけでなくお金まで消耗してしまうことになる。無課金を貫かない限り、最適解を目指そうと思うと必ず「課金」という選択肢が目の前にちらつく。
そんなときは、「いま課金するのが最適解なら、この先に同じような場面があったときにはどうすべきなのか?」「そこからもっと効率をあげようと思ったら、どこまで追加で課金すべきなのか?」みたいなことをできるだけ冷静に考えることで、なんとか踏み止まることができる。
でも、そんなふうに遊んでるあいだずっと自制心を発揮し続けないといけないのは、すごく嫌なプレッシャーをかけられ続けているようで、どうにも気持ちが悪い。
それでも無課金で遊んでいると延々と繰り返す手間が面倒になったり、やりたいことを実行するのにものすごい時間がかるようになってきたりして、「いっそもうお金で解決したほうが楽なのでは?」という場面がどこかでやってくる。考え方が古いのかもしれないけど、そういう選択肢があること自体にものすごく不自然で不純な印象を持ってしまう。
そんな状況が続く中で何かのきっかけで我慢の限界を超えてしまうと、「これはもう無料の範囲ではやってられない」と決断して課金に手を出すことになる。
もしかしたらそうやって費やした合計金額は、パッケージゲームを買って同じくらいの時間遊んだときと変わらないかもしれない。でも、パッケージ販売のゲームであれば、最初に一定額払ってしまえばあとは好きな時間に、好きなだけ遊べばいい、という安心感がある。
中にはCivilizationみたいに無尽蔵に時間を吸われてしまうゲームもあったりするけど、少なくともお金を無尽蔵に持って行かれることだけはない。
天井がない、というのは純粋に怖い。
また、「課金したら負けだと思う」「貧乏人のやっかみ」など、直接ゲーム内容ではない部分で変な葛藤や対立構造みたいなのが生まれるのにも個人的には違和感を感じるところではあるけれど、もしかしたらそんなところまで含めてソーシャルゲームの楽しみのうち、なのかも。