2006-04-02

芸術は「選択だ!」 芸術は「選択だ!」 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 芸術は「選択だ!」 - Nao_uの日記 芸術は「選択だ!」 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

The Tower』『シーマン』『大玉』の斉藤由多加氏のblogより。

スタジオで進行しているCM映像ではすべてが作りこまれたCGだ、と思うと不思議な気分になる。自分がカメラでぱちぱちと撮っているのはすべて偶発的にそこに発生している風景にすぎないんだから。

そもそも風景というのは自分のコントロール外にあるものだ。だから風景と呼ぶのだろう。それを撮影して「作品」と呼んでしまうのは、つまり、その風景の作者となってしてしまうのはどういうことを意味するだろうか?なんてね。人工物をつくっている者としては、まるで偶然の産物を自分の産物にしてしまっている気がしないでもない。

この話を過去にH氏にしたことがある。

「いや、その光景を選んだ、という最大の行為があるのだ」

という文句を放った氏は、プロのジャーナリストである。

選曲家という職業がある。曲は第三者の作品であって選曲家はそこに何も介在してはいない。でも数ある中から特定の曲を選ぶことで自己表現が可能である。

過去から膨大な曲数が存在する世の中である。わざわざユニークな曲を書くことよりも、すでにある曲を組み合わせることの方が多彩な表現ができる気がしなくもない。ただし、「表現」となるためにはその対象が無数にある場合に限られるように思うのたがね。

音楽は12個の音符で、シェイクスピアは26のアルファベットで表現されている。100×100ドットの順列組み合わせでできた写真の中には、モナリザからマリオまですべてをこの組み合わせのひとつとして含んである。ということは、写真もCGも選択なのかな?

表現というのは「作る」といいながら、実は膨大な組み合わせの中から何かを「選びとる」ことを意味するのかもしれない。

「表現というものは組み合わせの中からの選択ではないか」という話。そういえば、自分も以前に似たようなことを考えていたことがある。

昨日の「妖精現実フェアリアル」の「円周率はランダムビットだからどこまでも計算していけば、どうせいつかは著作物と同じデジタルデータが出てくることは避けられない」という話ともつながるところがあるような。デジタルの不思議。

このように考えてみると、こんな風に他人のBlogを適当に切り貼りしたものも表現の形態の一つだったりするのだろうか。そもそも表現って何なんだろう?