■ スーパーマリオ64タイムアタック
- Super Mario 64 time attack in 16:27 (Ninja style!)
こんなに華麗で機敏な動きができるゲームだったんだ・・・。見てるだけで気持ちいい。
突き詰めるとこんなふうに狂った動きができるようになるゲームは大好きなはずなのに、なぜだかわからないけれどマリオ64は発売当初から自分の肌に合わなかった。DS版も買ってみたけれどほとんどプレイしていない。たぶんよく出来たゲームなんだろうという気はしているのだけど、不思議なことに何度プレイしてもこのゲームの良さが理解できなかった。
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マリオ64は、3Dゲームではこれ以上のものはないというほどのできばえだった。マリオ64でとにかくすごかったのは、そこがまさにデカルト空間であったことである。つまり、あるものはまさにそこにあるというだった。ゲームでは、背景は固定絵、つまり書き割りであるというお約束があった。ここから脱却したのがマリオ64だ。
※マリオ64ではカメラを固定することができるため、スタート地点にカメラを固定して、米粒以下になったマリオに山を登らせるなんていうことも可能だった。
見えるものには全部触れることができる。背景の山には、背景であるから登れないのではなく、急勾配でマリオの脚力では登れないから登れないのである。つまり、亜空間ではなくマリオデカルト空間の誕生である。
今なら上に挙げたようなマリオ64の素晴らしさも理解できるれど、このゲームが出た当時にはいくら上記のような文章を読んでもそのように感じることができず、同時期に発売されたサターン版の『Nights』ばかり遊んでいた。今にして思えばこのころが自分の中でいろいろなものが歪み始めた時期だったのかもしれない。
当時はN64のアナログスティックや独特なボタンの多いコントローラーにうまくなじめず、3人称視点でカメラを制御しながら3D空間を歩き回るという行為そのものが自分には難しすぎて、ゲームを楽しむところまで到達できなかった。自分には3Dのゲームは理解できそうにないのでこれだったらファミコン版のマリオを遊びなおす方がいいや、などと保守的なことを考えていたのを覚えている。
ちょうどSFC版の『F-ZERO』をはじめて遊んだときにSFCのボタン数の多さに混乱してLRボタンなど押せる気がせず、まっすぐ走ることすらままならなくて自分はもっとボタン数の少ないファミコンの単純なゲームで遊んでいる方が楽しい、と思ったのと似た感覚だったような気がする。同じような理由でいまだにSFCのマリオもちゃんと遊んでいない。
いまではコントローラーのボタン数や新しいインターフェースに戸惑うようなこともなくなり、あたりまえにPS2の全ボタンを余すところ無く駆使するようなゲームを遊んだり作ったりしているけれど、よくよく考えてみればゲームもこの20年の間にずいぶん複雑になってきたものだと思う。
複雑にするとついていけない人が出てくる。だれもが新しいインターフェースや新しい感覚についていけるわけではないために、新しい楽しさを知ってもらうにはその敷居を超えられるようなわかりやすい魅力が必要なんだなぁ、ということを改めて思い出した。