■ [開発]無意識の誘導(その2)
マンガ・アニメなどのメディアでも、優れた作品では説明的ではない手段で伝えたいことを確実に伝えるためにさまざまな工夫を凝らしているようだ。『天空の城ラピュタ』を例にとると、
- 海賊vs軍隊という対立項と、シータ、飛行石のアビリティを的確に説明するプロローグ。
- ドーラとの電車追いかけっこの前までに、「パズーに出し抜かれる子分たち」「街の人にやられる子分たち」と、「パズーを的確に発見するドーラ」「街の人を手榴弾で撃退するドーラ」を描き、海賊団の中での力関係を説明しきっているのが凄い。
何気なく見ている分には見過ごしがちなごく普通のカットであっても、その中には大量の情報が含まれていて無意識のうちにその世界やキャラクターに対する理解が深まっていくように作られているようだ。
他の作品だと「機動戦士ガンダム」の第1話も、30分弱で舞台となる世界の説明から主人公の性格や生い立ち、周りのキャラクターの立場や旅立ちへの過程と今後の目的などを余すところなく説明しながら、一つの話としてもきっちりと起承転結を押さえて展開している作品として有名だし、映画を見ていてもよくできた作品は最初の3分だけ見ても内容の濃さが違うのがわかる。
広く知られているような優れた映像作品では、ほぼ全ての場面において手を抜くことなく誰が見てもよくわかるような工夫がなされているために、考えなしになんとなく作られている映像とは同じ時間でも伝わる情報量が変わってくる。こういうのと比べてみてみると、ゲームのオープニングムービーなどはその時間の割には伝えている情報量が少なく感じることも多い。
さらに、ゲーム本編ではプレイヤーの操作の介入が入るために普通の映像作品と比べると製作者の想定通りに対象を認識させたり、視線の誘導を自由に行ったりすることが難しい。
それでもゲーム開始直後の右も左も分からない状態のプレイヤーにこちらの想定通りに行動してもらいながら、操作感覚やこのゲームの仕組みを楽しみ、驚きつつ理解してもらう、という流れを作ることはとても重要だ。
結果として、どうしても見てもらいたいものがあるたびにゲームの流れを止めて対象物を説明するカットやメッセージを挿入するという手段で解決することが多い。また、視線の移動がプレイヤーにゆだねられていてそれが難しいFPSでは、建物の配置や通路の向きを調整することで対象物に視線が行くように工夫しているようだ。どちらのやり方にも一長一短があるけれど、できるだけ自然な流れでプレイヤーを誘導できる方が好ましい。
また、ゲーム中のプレイヤーの誘導についても、バイオハザード4がプレイヤーの歩く速度を細かく微調整したり、建物に何かいそうだと思わせるために敵視点のムービーに自動で切り替えたりという「演出による導き」をおこなっているのに対し、Half-Life2では、ユーザの意識を特定の建物に向けるために、必ず通る階段を上がっていくと、正面にその建物が見えるようにマップを作成する、といった「環境による導き」を行っていて、こうした部分でも対照的なのは興味深い。
また、プレイ開始直後の導入部分の製作はシステムや作業フローがまだ完全に固まっていないプロジェクト初期に作られる事が多いために、後から「もっとこうした方がいいのでは?」などということに気づいてもすでに手遅れになっていて残り期間や修正コストを考えるともう直しようがない、という事態に陥ってしまう事もあったりする。プレイヤーが初めてゲームに触れる大切な部分であるにもかかわらず、どうしようもないこととはいえ、ある意味なおざりに作られてしまうというのはとても勿体無いことのように思う。
N64版の「罪と罰」では、最初に1面を作った後で「特殊な操作のゲームなのにいきなり実戦に叩き込まれるのは難しすぎるのでマズイ」との任天堂側の判断で、1面の前に操作のチュートリアルモードと絶対に死ぬことのできない練習面の0面を追加した、という話を聞いたことがある。
こういう事例を見ていると、いっそのことオープニングやゲームの導入部分の製作は仮の状態で置いておいて、伏線を含めてゲームがちゃんと固まって最初に何を伝えるべきかがはっきりと分かってから本格的に製作に入るようにする、といった作り方も面白いかもしれない。ホントはそんなことがないようにあらかじめよく考えておくのが一番なのだろうけど。
[参考]