0013-09-01

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『海軍設営隊の太平洋戦争―航空基地築城の展開と活躍』 『海軍設営隊の太平洋戦争―航空基地築城の展開と活躍』 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 『海軍設営隊の太平洋戦争―航空基地築城の展開と活躍』 - Nao_uの日記 『海軍設営隊の太平洋戦争―航空基地築城の展開と活躍』 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

ニューギニアの最前線で基地設営隊の指揮官をやっていた人の話。日本軍がどのようにジャングルを切り開いて飛行場を作っていったのかの記録、みたいな内容を期待して買ってみたものの…

日本軍が人力で数ヶ月かけてジャングルを切り開いて未舗装の飛行場を作ってたのに、米軍はブルドーザー等の重機を駆使してたった10日間で鉄板敷きの滑走路で戦闘機を飛ばしてた、みたいな差があったらしい。そのあたりが実際どんな状態だったのかを知りたくて読んでみたら、予想外の展開に。

輸送艦で潜水艦が跋扈する海域を超えて、魚雷が船の下をくぐる九死に一生を得るような危険を冒してニューギニアに上陸。海軍設営部隊の先遣隊として機材の揚陸から飛行場や道路などの施設の選定や設計、開墾を意気揚々とこなす、みたいな期待してた内容はこの本の100ページも経たないうちに終わり、

飛行機が飛べるまで数ヶ月かけて整備された飛行場が敵の大空襲で壊滅。基地が放棄される事が決まると、海軍の航空隊は後方の基地へ転進という名の撤退。前衛の基地が空襲や上陸攻撃を受けて次々と壊滅する中、さらに後方の基地を整備する時間を稼ぐために、設営隊は玉砕覚悟で防備に当たることに。

結果として、残された設営隊は使用可能な飛行機もゼロの飛行場にあたかも戦力が残ってるように見せかける囮部隊として残る。防衛用のトンネルや塹壕を島中に掘りめぐらせつつ、破壊された飛行機を形だけ組み立てて駐機し、木製の高射砲の案山子を作って偵察に来る敵機を威嚇する。

そのころには主戦場はすでにフィリピンに移っていて、ニューギニアに上陸した15万の兵隊は補給が完全に途絶えた状態で熱帯雨林の僻地に取り残され、いつの間にかこの本の主題も「飛行場の設営記録」から「敵からも味方からも見放された未開のジャングルでのサバイバル体験記」に変わってた

一時は狩猟採取の原始時代みたいな生活で骨と皮に痩せこけた飢餓状態に陥るものの、食べられる野草やわずかに残った野菜で食いつなぎつつ貴重な種を大事に育てて農業を営む。熱帯地域ではうまく育たない野菜も多かったものの徐々に食料事情は改善され、最後には苦心して作った飛行場も一面の南瓜畑に。

空襲の合間を縫って藁袋をほぐして作った網で漁業。現地人との交易で手に入れた小さなカヌーでは鱶漁が難しかったため、大きな木をくり抜く10人乗りのカヌーを作り、それに飽き足らず木工兵がボートを建造、最後には壊れたトラックのエンジンと薬莢を鋳造したプロペラで発動機付きの船まで作ってた

「筏から独木船へ、独木船から櫓船へ、櫓船から発動機船へと、われわれが必要と欲望によって行う進歩の段階は、いわば文明発展史の縮図であった

。われわれは必至の努力とたゆまざる工夫によって原始生活から脱出し、次々と文明生活を回復していった」

「しかし不思議なことに、原始状態に突然落ち込んで行った時、われわれの頭脳の働き、ならびに欲求は、一足飛びにともの文明生活へと飛躍しないで、多くの場合、原始時代から文明時代への進化の過程をとびとびに繰り返すのであった」

海軍設営隊が補給が途絶える事を前提に数ヶ月先の収穫を求めて農業の準備を始めた頃、陸軍は空襲を警戒してジャングルを切り開く事を恐れ、飢餓状態で餓死者が多発。飢餓で動けないのでジャングルの開墾もままならず、海軍から南瓜の苗を分けてもらうも数ヶ月先の収穫を待てず苗を食べてしまうケースも

このあたりになるともう完全に戦記というより食料自給の工夫の話しか出て来ない。飢餓のサバイバル状態から次第に生存可能な最低限の食料が得られるようになり、農園での自給自足に発展していく。昔読んだ本で同じく南洋で終戦を知らず戦後10年ほど自活して生還した話でも似たような状態だったけど、

死にそうな飢餓状態から安定した食料を見つけて満腹で一時的に満足しても、少し時間が経つとあれほど美味に感動した食料にも飽きて不満を抱くようになる。さらに新しい食べ物を求め、その度に工夫と進歩で少しづつ生活レベルが向上していく。こういうのは人間の本能みたいなものだったりするのかな

基地設営能力の差について。ウェーキ島を占領して捕虜を使役した作業中に米兵が「こんなに大勢で寄ってたかって手作業するのは馬鹿げてる。そこに転がってる機械を使わせてくれれば、自分一人でやってみせる」と豪語したので半信半疑でブルドーザーを使わせてみたら、

米国では当たり前の新兵器でも何でもない工事用の重機が驚くべき威力を発揮して、一人で300人分の作業をこなしたという話も。その後、日本でも鹵獲品を元に見よう見まねで重機を作るようになったものの、兵器優先で数も揃えられず、故障多発の低性能で運用ノウハウもないために活用できず。

いろいろなところで指摘されてる陸海軍の連携はここでも全く考慮されず、それぞれが個別に飛行場を設営したり、重機の開発・量産も別々にやってたりなど恐ろしくムダが多かったうえに、初期は工兵は軍属扱いで海軍の一番下の階級の兵士よりもさらに格下の扱いを受けるなど、組織的な問題も多々あった

工員は2ヶ月の促成訓練のために技術習得が難しく「軍人としての規範と規律を叩き込む」ことが重視されてた。車の運転経験のある人も稀で鍬とスコップでひたすら手作業で頑張るしかない状態。一方、米国はニューディール政策で大規模な工事を経験してて作業にあたる技術者の層の厚さも違ってた

米海軍では工兵隊が「シービーズ」と呼ばれる海軍の組織として運用されてた。単なる徴用兵ではなく溶接工・電気工・機械工や重機操縦者も含む専門職の経験者で構成され、総数24万人のうちの18万人が太平洋戦線に投入されていた。滑走路を4日、鉄道を3日で作り、正規空母の応急修理までこなしてた

少なくとも空港や各種施設の設営能力についてはいろんな面でレベルが違いすぎて「あのときああしてれば」とか考えるの自体がムダに思えるレベルの圧倒的な国力差が。航空機だけがあっても飛行場がなければ意味がない。とはいえ飛行機だって足りてないからどっちにしても、という話なのかもしれないけど



奇跡の雷撃隊 森 拾三 奇跡の雷撃隊 森 拾三 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 奇跡の雷撃隊 森 拾三 - Nao_uの日記 奇跡の雷撃隊 森 拾三 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

海軍入隊後、試験を受けて整備員から搭乗員へ。 南京で中国軍と戦う

「p119

野中大尉は「いいわけ無用論者」であった。一人前になるには、飛行機なんぞ、いくら破損してもかまわぬが、搭乗員の死傷は困る、それだけ海軍の戦力が落ちるんだぞ、とよくそんなことを言っていた

帰国後、大村航空隊で教官。数年前にはじめての単独飛行を許可される立場から、教官として単独飛行を許可する立場へ。

その後、蒼龍に転属命令。はじめての着艦訓練。

鹿児島湾で、通常は距離1000m高度50mでやる雷撃訓練を、距離200m高度5mでやるという特殊な訓練に従事。

真珠湾を想定した訓練だが、隊員には知らされず。

参加艦艇がヒトカップ湾に集合してから真珠湾へ。

現地到着、隊長機が巡洋艦を攻撃しようとしたので目標を変えて戦艦を雷撃。

攻撃後に対空砲火で被害を受けて、右足が出ず不時着。駆逐艦に救助される

蒼龍の被害は、零戦一機とこの不時着機のみ。

蒼龍は帰路にウェーキ島を爆撃後、佐世保に戻る。

新しい飛行機を受領に霞ヶ浦に行くも正月で人がおらず、横須賀にたらい回されたうえに新品はないと言われて訓練に使っていた機体を貰って宇佐に戻る

蒼龍はダバオからセイロンへ。飛行機を降ろして無防備になっていた英空母ハーミスを発見して撃沈

ドーリットル空襲の影響からミッドウェーの準備にかかるも、真珠湾攻撃の時の慎重さを失って企図の秘匿もできず、あきらかに油断があった

蒼龍を出撃して、敵戦闘機の迎撃を受けつつもミッドウェーを爆撃して戻る。このときはじめて敵戦闘機に迎撃された。

米軍の操縦士が落下傘で退避する描写は沢山見かけるのに、日本の操縦士は敵艦に突っ込んで自爆する描写しかみない、というあたりものすごく対比が。

母艦目指してもどると、ちょうど飛龍が攻撃されていたが、零戦が撃退してた。

「p242

どこの国の雷撃機でも、戦闘機の前には何とも惨めなものだ。戦闘機を伴わない裸の雷撃隊の末路の哀れさを、他人事でなくつくづくと感じさせられた。それにしても、身を賭して戦う敵の来撃退も、なかなか勇敢である

着艦後に装備を整えて休んでいる最中に攻撃を受けて爆弾が誘爆、海に飛び込んで駆逐艦に救助される。

蒼龍にはレーダーがなく、低空の雷撃機の見張りに気を取られて上空から太陽を背にした急降下爆撃に気づかなかった。

無傷の飛龍から2次攻撃隊がでてヨークタウンに魚雷3本を命中、友永大尉死亡。

飛龍も反撃を受けて沈没。

生き残った飛行搭乗員は九州の鹿谷基地に収容されたが、基地員との往来や接触を禁じられ、見張りの番兵まで着いて軟禁されているような状態。

その後、蒼龍の艦攻隊は隼鷹に転属。

実戦経験のない分隊長の下について最初は困ったが、率直に伝えて研究会などを行うようになる。

部隊はガダルカナル戦線へ。

第一次ソロモン海戦で龍譲を失い、南太平洋海戦では翔鶴が大破するもエンタープライズサラトガが大破で戦線離脱。

榛名と金剛のヘンダーソン飛行場への砲撃があったが、航空機を100機以上失う痛手を受けた、という状況下。

10月13日、金剛と霧島が飛鷹、隼鷹の艦載機の護衛を受けつつ飛行場を砲撃するも、翌日には何事もなかったように150機が空港に揃ってた

島への補給は上手くいかず、繰り返し零戦が出撃するも、敵補充を上回る被害が出て日本軍はじりじりと弱って行く。

10月16日、ガダルカナルの飛行場を爆撃せよとの命令。魚装を爆装に切り替えて出撃。

「p291

分隊長機の電信員が、手を挙げて爆撃進路に突入した。もう無我夢中で、私の目には敵戦闘機も映らない。あと12秒ほどで投弾だ。このときの操縦が一番難しい。なるべく小さな行きをして、自分の体を動かさないように、水平直線飛行の編隊で飛ぶ。もし敵戦闘機が襲ってきたら、護衛のゼロ船体が追い払ってくれる事になっている。彼らには、艦攻隊が安心して爆撃できるようにする任務が課せられているのである。

このとき、実戦経験のない分隊長が目標を定められず、爆撃をやり直す過程で護衛の零戦もいなくなり、艦攻隊の8機に向かって30機ほどのグラマンに攻撃される。

編隊は乱れ、4500mの上空に単機で残された状態で激しい攻撃にさらされ、右手首から先を失う。

諦めて自爆のために巡洋艦に突入しようとしている最中に後席の偵察員の声で割れに帰り、ガダルカナルの西に墜落。

マラリアと栄養失調がはびこる飢餓の島で20日ほど過ごした後に輸送艦で脱出、帰還。トラック島経由で帰国。

空母零戦隊 岩井 勉 空母零戦隊 岩井 勉 - Nao_uの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 空母零戦隊 岩井 勉 - Nao_uの日記 空母零戦隊 岩井 勉 - Nao_uの日記 のブックマークコメント

予科練から戦闘機乗りに。中国戦線ではじめて実戦投入された零戦で出撃。

日米開戦後は筑波、大村で教育に従事、昭和17年11月、ガダルカナルが苦戦している時期に瑞鳳へ。

「生きては帰れない」と言われたラバウルで敵の爆撃隊や直援の戦闘機と戦う

昭和18年5月、一旦内地へ引き上げ、鹿児島基地で訓練。二ヶ月後に再びトラックへ。

上官が初出撃でまずい指揮のために死にかけたり、航法担当の誘導がミスって移動時に50機の零戦が燃料切れで落ちかけたり、など

昭和18年8月、事故で足を負傷してブーゲンビル沖航空戦に参加できず、11月に戻ってきた隊は半減していた。

12月下旬、瑞鳳は横須賀に帰り、台南航空隊へ転勤。

p239

着任後二日目、ここは戦地ではなく教育部隊だから型通りの地味な飛び方をしなければ行けないと重い、飛行場上空を300mで慎重に通過して、思い切り地味な編隊解散をやって着陸した。

ところが着陸するや、艦爆の指揮所から、

「今着陸した戦闘機の一番機の搭乗員は、すぐ指揮所にくるように」と伝令があり、「あんな派手な解散をしてもらってはうちの搭乗員はそちらに目を奪われ、自分の教育に身が入らなくなるので以後注意してください」と文句を言われた。

マリアナ沖海戦の時期、中国からの爆撃機で台湾が敵の攻撃目標になったときのために待機していたが、台南空には4000人の兵がいながら夜間空戦できるのは2名だけだった。

昭和19年8月、比島沖海戦のために瑞鶴へ。

「p265

もうこのころになると、編隊群での空戦など思いもよらぬ事で、そんな訓練をやろうものなら混乱を来たし、味方同士がぶつかり、危険な事この上なしである。彼らの飛行時間がわずか100〜200時間であってみれば、これは当然の事で、責める方が間違いの、無理な話なのである。

戦闘機搭乗員は、800時間になってはじめて一人前になるのだと、私たちはよく古い人たち言われたものだ。そして、私の場合は昭和十五年、800時間余になったとき、重慶において敵機との初空戦を経験したのである

瑞鶴には84機搭載可能なのに、このときには51機しか乗っていないのは、当時もう着艦経験者がいなくなっていかからだった。

敵機動部隊発見の報告で発艦後、途上で相手グラマンとの空戦にまき込まれて退避後に戦場離脱、母艦をみつけられずに燃料ぎりぎりでフィリピンのアバリ飛行場に不時着。レイテ突入の囮となった母艦隊は壊滅。

情報の届かない僻地の空港などを移動しつつ、クラーク地域の飛行場へ。

現地ではすでに体当たり攻撃は「公然」のものから「当然」のものへ。爆弾がハンダ付けされた特攻機が続々と出撃。

幸い、一航戦の3名は松山へ帰れ、との命令が出たが、飛行機は置いて行け、との無茶な要求。

敵対現地人を警戒しつつ、上空で空戦やたまに機銃掃射の危険に会いつつ、徒歩で陸軍基地に行って好意で帰りの輸送機の乗せてもらう。

無事に内地に帰ったものの一航戦は解体、岩国から香取へ転属命令が出るも、他の20機は先行して、奥さんが来ている著者と入院中のもう一人で分解整備中の零戦を組み立ててから遅れて移動しろ、と。3日後に遅れて移動したときには、本隊は硫黄島に特攻に出た後だった。

後で1機や2機で追いかけても犬死するだけと止められ、沖縄作戦の特攻前路掃討隊として戦う

百里基地に戻って肺浸潤と診断され、4ヶ月後の8月16日まで休養。原隊復帰直後に終戦

会敵直後の最初の攻撃のチャンスを逃さない体勢の作り方と、危険になった時に退避する方向やタイミングが行きのびて戦果を挙げる秘訣なのかも

「第一回は気負わず、見学せよ。人間でいる以上、いかに訓練を受けてもはじめて敵に遭遇したときは怖いのが本当である」

「その怖さは、2回目の会敵から度胸に変わっていく。会を重ねるにつれ、度胸の上に自信が付き、適期に対して心理的にも制圧できるようになる」

一回目から無理をすると死ぬ。

実力もさることながら、瑞鶴からの出撃とその後の放浪、紙一重の特攻隊や終戦直前の入院など、何度も死んでもおかしくなかった状況で運良く生きている、という感じ

特攻が当たり前なのが怖すぎる。読んでて空気が恐ろしかった

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予科練から飛龍で中国戦線で初爆撃した後、真珠湾攻撃に加賀から艦爆で出撃して、戦艦に250kg爆弾を命中。

単機で帰投して母艦が見つからず、加賀への旗艦は燃料切れぎりぎりで最後の一機となっていた。加賀の未帰還機は15機で、最も被害が大きかったらしい。

真珠湾攻撃後、加賀はトラック経由でラバウルを攻撃、敵戦闘機もおらず訓練同様の爆撃を行って占領。

ポートダーウィンではじめて爆撃を外したが、数十回の出撃で目標を外したのは後にも先にもこの一回だけだった、とのこと。すごい

ジャワ沖で味方機が攻撃を外すも、最後の一機となってから命中。その後、禁止されている機銃掃射時に被弾、エンジンをやられて危うく母艦に帰れなくなるところだった

加賀から隼鷹に転出。愛機の「全日本女子学生号」と離れて、ミッドウェーの陽動作戦のアリューシャンを攻撃。

駆逐艦に救助された蒼龍の搭乗員を収容。

南太平洋海戦で、二次攻撃隊として出撃して、攻撃を受ける翔鶴の上を超えて敵艦爆とすれ違いつつ、戦艦を爆撃(一度は雲から抜けて駆逐艦に照準が、爆撃をやりなおした)。

激しい対空砲火の中、敵グラマンに追われて対空砲火が止まる。そのグラマンは味方を襲った後で残弾がなくなっていたので九死に一生を得る。

敵空母が残存している事がわかったので、第3次攻撃が出る事になり、死を覚悟。煙を噴いて停止するホーネットにとどめを刺す。

しばらくトラック島で訓練した後、アメーバー赤痢で内地に帰還、入院。母艦任務を負える。

その後は鹿児島で搭乗員の訓練の後、レイテ島を攻める米軍に対抗すべくフィリピンで、はじめての地上部隊へ。

訓練不足で現地に到達する前に脱落するものもあり、

出撃しようとするとが機銃がない、とか上官に戦場経験がない、みたいな場面が増えてくる

27機で鹿児島を出撃するも、ろくに編隊も組めず、エンジントラブルでの脱落もあって現地に着いたのは15機。

到着直後の空襲でさらに10機を失い、はじめて空襲される側に立たされて脅威を実感。

現地の部隊は特攻ですべて失われ、時折補充されるものも自爆出撃。その補充も、時間とともに数が減って来なくなる。

ついには特攻部隊として出撃せよ、との命令を受けるが飛行機が一機もない状態が続いてそれすらままならない。

レイテ湾に米軍が上陸して、空軍なのに日本刀を渡されて肉弾攻撃を命じられるも、直前で搭乗員はフィリピン北まで一ヶ月歩いて内地に帰れ、との命令。

苦難と飢餓末に台湾に渡るが、そこでも生き残った搭乗員の一部は特攻を命じられる。

宇佐に帰り着くも知っている人はおらず、東京で死亡者名簿からはずしてもらって、原形をとどめない元の隊と同じ名前の部隊に配属。

「後2ヶ月もあれば自爆くらいはできるようになるくらいの練度に」

教官として特攻兵の教育に従事するも8月15日、特攻命令をうけて離陸直前に、終戦



開戦当初は敵戦闘機の迎撃も少なく、「訓練より実戦の方が楽」みたいな状態。

目標変更で爆撃やり直しなどの都合で攻撃後に仲間とはぐれて単機で帰還する事が多かったが、そのときに集合した味方機が戦闘機の襲われる事が何度かあって、単機で帰投したおかげで命拾いしたケースも複数あった。

帰路に帰り着けないことは多いみたい。荒天で空母からエンジン音が聞こえるのに母艦が見つからず、燃料切れで自爆した例も。

1キロ爆弾で練習、照準を除きながら450mで発射、300mでは通り過ぎる

特攻機の戦果はどの本も当時の日本側の記録そのままなのか、「空母2戦艦1撃沈」などと過剰に大きく書かれている。終戦後の米側の資料も引用されてるのでそれほど戦果があがっていないことは本を書いてる時点ではわかってたのではないかと思うあたり、あえてそうしてるのかな