■ [本]皇帝の新しい心 ISBN:4622040964
著者のペンローズは「強いAI」の否定論者であり、その根拠として、
理解が間違っていなければ、上記のような内容が書かれていた。
上記のペンローズの主張における「意識」とはいったい何なんだろうか?
(チューリングの停止問題を理解できない僕は「意識」がないんだろうか?)
どう扱っていいのか(未だに!)見当がつかないのは、神秘的な「無意識」の過程である。
だが、無意識の過程はアルゴリズム的でありうるが、ただ非常に複雑なレヴェルにあって細部を解きほぐすことが恐ろしいほど困難であるかもしれない。
そこで私は、脳の無意識の活動はアルゴリズム的過程に従って遂行されるのに対し、意識の活動は全く異なっていて、いかなるアルゴリズムによっても記述できないような仕方で進行する、と唱えたい。
ペンローズは無意識をアルゴリズム的な自動機械であるとしている。
哺乳類より下等な動物は意識はなく無意識のみで行動し、人間に関しても
小脳の活動は無意識的、アルゴリズム的で「意識は存在しない」と言い
切っているようだ。
単に「無意識」を軽く見すぎていて理解していないだけなのでは?
「無意識」と「意識」の境目って何だろう?
人間以外の動物が意識を持っていることを全然認めない人たちがいる。(それどころか、紀元前1000年以前の人間にさえそれを認めない人たちもいる)
その一方では、昆虫、虫類、ことによると石にさえ、意識を持たせる人たちもいる。
私自身は、虫類や昆虫がこのような性質を多分に備えていることを疑うし、石は確実に備えていないと考えるが、哺乳動物は一般的に行って正真正銘の意識を幾分有しているという印象を与えてくれる。
意識的であるためには、私は何かを、たぶん苦痛、あるいは暖かさ、あるいは色彩のある光景、あるいは楽音を意識していなければならないし、ことによると、当惑、絶望あるいは幸福の感情を意識しているかもしれないし、過去の何らかの経験の記憶を意識しているかもしれないし、誰かの語ったことが理解できたことを意識しているのかもしれないし、あるいは自分の新しいアイデアを意識しているのかもしれない。
これら全てを備えないと「意識」とは呼べないのか?
哺乳類はこのかなりの部分を持っていると思われるし、爬虫類やそれ以下
の生物であっても部分的に持っているものだと思う。
ペンローズの言う「意識」とは、計算などのアルゴリズムを実行できる
事はもちろん、ゲーデルの定理や、「どのアルゴリズムを使うべきか」
などのアルゴリズム的特性を持たない判断形成を行う必要があるらしい。
簡単な例を挙げれば、2つの数を掛け合わせるアルゴリズム的規則と、ある数を別の数で割るための規則を学んで知ったとしても、目下取り組んでいる問題では数をかけたらいいのか割ったらいいのかを、どうして知るのか。それを知るためには、考え、そして「意識的」な判断を下さなくてはならない。(このような判断が、少なくともとこには非アルゴリズム的であることはまもなく分かる)
著者が頭が良すぎるせいなのか、人間の意識や思考を非アルゴリズム的
なインスピレーションによってどういったアルゴリズムを実行するかを
判断するような特別な手続きである、と解釈しているのか?
普通の人のや普通の生物の思考はもっと曖昧模糊で適当で不正確なもの
であるように思う。
「アルゴリズム的であるか非アルゴリズム的であるか」を意識の有り無し
の判断基準として用い、非アルゴリズム的判断の下せる人間は特別な存在
である、という考えがあるようにみえる。
(西欧のキリスト教的世界観の影響?)
意識のありなしは、なんらかの閾値を基にデジタル的に有無を判断できる
類の問題ではなく「どの程度[人間的な]『意識』をもっているか」の
レベルの大小で語るべき問題ではないのだろうか?
(人間的な、という言い方はやや引っかかるものがあるが)
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- 人間原理に関して、この宇宙で人間の科学者のみが「観測」を行う?
- 人間がいない、もしくは人間の中に科学者がいなかったら?
- 科学者がいなければ観測は行われない、観測されない宇宙には意味はないのか?傲慢?
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著者の「無意識」に対する理解の低さ、「意識」を人間的なものに限り、
創発の概念の存在しないどこにでもあるような古典的なAI批判に終始して
しまっているのが残念。
(書かれた時期が古いというのもあるのかもしれないが)
数学、アルゴリズム、物理学の歴史から始まって相対論、量子論、宇宙の
始まりや終わり、と壮大に展開する前半を読んで、ここからどうAIに話を
持っていくのか期待していたのに肩透かしを食らったような感じがある。
想像の範疇。その他の部分が面白かっただけに、本当に残念。
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以前からの疑問である『この世界は決定論的かどうか』に関しても、
あいまいな答えしかえられなかった。
量子論の本質的なランダムによって世界は完全に決定論的ではないのは
確かなようだが、量子的ランダムは惑星の軌道に影響を与えたりはでき
ないように思う。
普通に生活しているレベルでも量子論的な効果は無視できるだろうし、
脳の動きに関しても、まだ無視できるスケールのように思える。
CPUなどのリーク電流に関しても、量子的にはランダムであっても、
電子の数が多すぎるので確率的に漏れる量はある程度一定になるのでは
ないか?
(詳しいことは知らないが。パーコレーションなどと同じようなもの?)
大局的なスケールになると粘性のようなものが働いて見た目の影響が消え
てしまうのか、それともカオス的にどこかに影響を与えるているのか。
「皇帝の新しい心」によると、視神経は光子一つでも反応することが
できるらしい。一つの光子をハーフミラーで分岐することで視神経に
到達するかどうかをランダムに決定し、その後の神経パルスの発生を
量子的効果で変えることはできるようだ。
それとて通常の場合は大数の法則にまぎれて本質的には消えてしまう
ような気がするが。
(コレがコントロールできれば何かが変えられる?SF的ネタ?)
量子効果の結果、決定論的ではなくなってしまうかもしれないが、そうで
あっても結局のところ本質的には何も変わらないような気もする。
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「どうやったら意識が発生するのか」という問題は、
「どうやったら生命が発生するのか」と似た問題であるように思う。
両方に共通する、何か本質的なルールがあるのではないか。