■ 山本七平「空気の研究」
「今ある姿」は、現実構文の内容である。そして、「あるべき姿」は、未来構文の内容である。「今ある姿」を「あるべき姿」と比較すると、現実批判ができる。英米人とも、話を合わせることができる。
だがしかし、日本語には未来構文がなく、「あるべき姿」がない。それで、現実の中から比較のための (絶対) 基準を捜し出さなくてはならない。
実況放送・現状報告の内容からは、絶対基準は得られるはずもない。
こうして「今ある姿」対「今ある姿」の横並びの形式の比較にすれば、日本人の頭の中にも抵抗なく入る。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「事実を事実のままのべても、それは事実であるからそれをそのまま口にするだけのこと。口にすること自体は別に大変なことではありますまい。大変なことは、私が口にしようとしまいと大変なことです」と書いている。
宮本政於は「お役所の掟」のなかで「私は理論だったものごとの展開はするが、けっして頑固ではない。メンツだとか、プライドにはこだわらない。すくなくとも自分ではそう思っている。しかし、そのような私の性格が役所ではどうも災いの原因になっていることに気がついた。」と書いている。
こうしたしごく当たり前の態度が、日本人には当たり前とならないのは、日本人の求めるものが感情に基づいた発言だからである。 日本人は、英米流の議論をするために問題を持ち込むのではないようだ。議論をさけて問題を解決したいと願っているかのようである。これは、問題を抱えた時のきわめて危険な態度である。