0014-07-20

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軽い気持ちで見に行ったら、監督の想像以上の熱意に圧倒された。以下、話を聞きながらのメモ書き

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でき上がっていない映画なので宣伝費がない。今日は大阪まで自分の車で来た。

宣伝費がないので物販を作るのに数十万円を自費で持ち出ししたが、すずさんのポスターはもう売り切れた

マイマイ新子では自分の知っている昭和30年は描けたが、そこから10年遡って、山口でなく広島を書けるか?を試したかった。

やりたいものに近かったので、この題材を選んだ。それ以来、三年くらいやっていてやっと作画を始められた。

それまで何をやってたかと言うと、資料を集めてた。

マイマイ新子では本棚一つだったのが、今回は仕事場の壁一杯の資料になった

戦前の化粧品や、焼夷弾の実物M69など(信管が着いてる)

平成18年12月の掲載誌に、昭和18年12月の話が描かれていた。

連載と同時にリアルタイムで戦争が進んで行く!

原作を読むといろんな事が書かれてて、説明しないで書いてるんだけど、何気なく書いてあるように見えて、必ず何かある。

昭和8年の夏から昭和10年に欠けて、空前のヨーヨーブームだった

キャラメルや飴の細かい値段とかも、これ調べたんですか?と河野さんに聞いたら、私は歴史が苦手なので、最初に年表を作った、そこに「空前のヨーヨーブーム」とかいてあった、と。

スタッフで海苔を作りに行った。草履も作った。落ち葉でたどんを作った。うどんのゆで汁で固めた

「このマンガは実在しないすずさんを描いているけれど、この絵も外側も書こうと思えば書けるんです。じゃあどこまで我々は拡張して行けるんだろうか、と考えてしまいます。たとえば…」

「冬の記憶」の最初の場面を再現したいが、アニメの絵は横に広い

→これがどこなのかを確かめる必要がある、確かめて描く

海際の縁は戦後にできていたので、映画では消した

江波山の上の気象台は昭和9年には工事中

別アングルから松の木、今の場所も見た

では、背景が真っ白なコマはどうするか?昭和14、昭和39年の航空写真から家三軒がある事を見つけて書いた、けど、何か違うと気付いた

現地に行ってみて、今残っている家の床下を覗いたらコンクリートだったので昭和14年当時のもととは違うらしい、と知って、近くに住んでいた人の写真を元に書き直した

このペースで話をしてたら前回のイベントでは三時間ですずさんが嫁に行くところまで行けなかった

読めない看板があるが、片側しかない裏側からの看板を参考に書いた、平和記念公園の芝生の道になってる。爆心地から170mの至近距離であるにもかかわらず、今でも使われている

→これをちゃんと書きたい

 薬屋さん、仕出し料理の店、を特定した。住んでいた人がご存命。ここに住んでた人は学童疎開に行ってたので、80過ぎてるけどご存命、来週話を聞きに行く

今の場所とわかるようにするにはカメラを引く必要があるが、手前に資料のない店がある、カット沢山あるのに!

大津屋さんの前にいる赤ちゃんは、女学生になったときに原爆で死ぬ、この弟さんは去年亡くなった

→どこまで現実と地続きにするべきか?

 話を聞きに行くと、隣の店はこんなモダンじゃなかった、もっとぼろ屋だった、みたいな指摘があったりとか。

 どこまでやればよいのかきりがない

  →なので、今回のイベントのタイトルは現時点で「ここまでは調べました」という意味。

空襲警報が鳴った時に見た飛行機雲、このB29が実在する!

B29の飛行記録を調べたら、

→映画作るのに関係ないような、と言われたらそうなんだけど、原作に対する理解

三月27日に大和が呉にいるのを出られないようにするために、瀬戸内海の西の出口を機雷塞いだ

その後、呉に直接機雷を巻きにきたB29がいた(3/30)

4/1に、港の中に嫌いを巻きにきた、大和は港の外にいた

大和と矢矧は港の外にいなかった

4/3に大和の捜索を始める、みつからない

4/6に三田尻沖にいる大和をB29が真上を通るが、夜中なので見つからない、

9:45に大和の写真撮影したB29がいる

夜中

空襲警報が実際に鳴った記録を元にマンガを書いてる、

大和が位置がばれて、この後出撃して沈んだ

雪隠詰め、詰め将棋に負けた

広島の方へ飛んで行き、広島から三田尻に行った

この世界の片隅に、はひとこまひとこまが現実に繋がっているんだな、と。

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広島でイベントをやったら、質問で手を挙げた人がこうのふみよさんで、

「わたしはモノクロでマンガを書いてるからいいんですが、色はどうするんですか?」って。

 →河野さんがカラー原稿で書いたままに。

なるべく戦前のカラー写真を集める。金魚みたいな赤い色が多い。NHKが意外とカラーの映像を持ってる

 (戦前のカラー写真、新鮮)

戦時中ってどうだったのかな?

→だいたい女の人はもんぺを来ていて、名札をつけている

戦時中っていうとこんなかっこうをしてましたよ、という定番みたいなのがあって、拡張して行くと現実になって行く。

いつから女の人がもんぺを切るようになったのか、いつから胸の名札に血液型を書くようになったのか?

資料を集めた

 昭和2年は洋装、昭和18年の10月くらいで勤労動員の女学生はもんぺを来てない

 決戦服装協調運動で鼓笛隊のパレードをやってる、男の人も国民服でなく、女の子ももんぺではない、小学生の服はいまとそこまでかわらない

アピールするためにパレードをする必要があった

→みんなはいてないんでは?

 →学徒出陣の壮行会の観客席で見送ってる女子はスカート

  →演習か訓練ときにはもんぺ、昭和18年の9月には駅員もスカート

  18年戦時中の雑誌に、このあと急に女子がもんぺをはくようになった

  →巻きと炭の配給が止まった、寒くなった

  →19年4月くらいの新聞に、「暖かくなったからと言ってもんぺを脱ぎたがると言う風潮があるが」と書かれていた

→これらが作中に再現!

  本格的に皆がこの格好をし始めたのは、連載開始時点の一年後に空襲が始まってから

大正15年の12月には、銀座を歩いてる人の43%が洋服

昭和三年は84%が着物、16%が洋服

昭和9年ヨーヨーのブーム、ゴム風船のヨーヨーは本物の代用品

昭和12年国鉄ミッキーマウス列車が走る

もんぺ普及運動、うまくいかない

 →あれはかっこわるい

 →昭和14年に、女性用の服の模様を減らす

 →呉で、男の人軍人じゃない人はみんな今の背広を来てた、海軍と同じテーラーで洋服を仕立てるから

昭和16年、大東亜戦争勃発

 婦人標準服制定されるけど流行らない

昭和18年の3月、完全服装、防空服装の割合4.5%

 同じ着きに衣服研究、該当のズボン履きの女性が

 燃料不足の折から、弱くて暖かい靴下の消耗が防げるから、ズボンが流行っているようだ

18年にはみんなもんぺ履きを馬鹿にしていたが、19年にはみんなきるようになった

昭和19年の4月に、内務省が身元票を整えるように通達を出す

 北海道庁小樽市に通達するのが5月18日。

7月くらいになると政府公報で「かならず身元票をつけるようにしましょう」

 空襲が来るまでは真剣にやってない

空襲が来るのが19年11月から。それまではみんな本気にはしてない

広電、209号車

 →外観から、実験車両らしい

  →こうのふみよさんが広島大学でマンガの先生をやってる

   →それをすすめた人が広電に詳しい

→僕が出会う前に彼女は書いていた

こないだツイッターで「あの病院潰れた」と言ってる人がいた。同じアングルで解体中の写真を

 →ストリートビューに入ってた!

国民学校は、塀と門と二宮金次郎だけが残ってた。いまはもう住宅になってる

はるみちゃんの学用品を買いに行くデパート、またしてもコマの外の両側が書けない

 →別の写真に偶然に一部が写ってた

市内電車が呉の幼稚園の淵者として残ってた

 →すずさんがいきてたら89歳。そのころの電車が残ってる

昭和20年4月の桜のコマの左端に残ってる小さい奴

 →図書館の屋根。図書館の裏にソテツの木が映えてる事がわかった

高畑勲焼夷弾の下をくぐって逃げた

焼夷弾に火が着くメカニズムを演出助手に調べさせたら、わからなくて、怒られた

 →しかられた助手は大学の同級生

 →鉄の固まり、日本の家屋の屋根を突き破るための重さ、瓦に当たって三秒で爆発

  →瓦は突き破るけど天井は突き破らないためのエアブレーキがそのヒモ

   →原作では、天井をはずしてる

    →30m火のついたナパームを打ち上げる、地面に落ちたものは消せると思った

     →床まで落ちたものは布団をかけて消せるもの、という扱いだが、現実的には無理

→米軍は日本家屋を砂漠に建てて実験して、科学的にこういうのを作った(ドイツの家屋も)

原爆当時の残ってた服

 →当時、女の人はおしゃれをしてたんじゃないか。

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はじめて朝日遊郭に行く場面、「グレート東京」と書いていた。

デートの場面、橋の上からみえる塔のようなものは?

 →消防署の櫓だった

  →消防署、すみちゃんがみまいに前あたりの場面にもでてる

   →すみちゃんが「消防署の前で待ち合わせ」っていってる、櫓が目印、と。

  →恋愛感情が芽生える場面にやぐらがそびえるのでは?

   →河野さんいわく「そこまでは意識してない」

   三丁目の境橋、5丁目のゴハル橋、と場所が特定できる、戦時中の橋が現存してる

  →消防署のやぐら、呉の街のどこからでも見える目印。目立つので待ち合わせ場所として、あとで少し話にも出てる

一話目ですずとしゅうさくが出会う橋、大正4年から8年まで木の橋、その後真ん中に一本増えた、さらにT字になる

あいおいばし、T字の重なっているところをターゲットに原爆を落とした

原爆後、T字の西側の欄干が壊れてる

「原作は現実と地続きになってる」

「ほんの少しでも何かが描かれている時に、必ずそれに対して現実の答えみたいなのがあって、それを紐解いているときりがなくて、紐解ききる事もないんだけど、その不思議な魅力に捉われてしまってる」

青葉が呉で擱坐している写真、

質問:

3巻の38階のところで、木に引っかかった襖みたいなのをはしごに上って撮ってるシーン、本当に広島から飛んできたのか?

 →よく見ると、原爆が落ちたコマの上の方で飛んでるんですよね。(会場笑)

  江波山野上に気象台があって、その時点での気象観測の結果で、吹き飛ばされたものが何がどこに落ちたかが書いてある

  チラシだったら何が書いてあるか

  呉と反対側に風向きが流れてる。黒い雨が降ったのは北西側。呉に飛んでくる確率はかなり低いと思うが、B29三機は実在する

  9日B29三機ひらい、宣伝ようのビラを2万枚散布、三機は江田島に向かって飛んで行ってる

長野の写真、昭和14年には普通のお店が、昭和19年、昭和20年に窓ガラスが外されている(原爆が落とされる危険があるため、全市民を市街に退避)

原爆の被害の相当部分は窓ガラスが刺さっていたので、窓ガラスを撤去している

三発目が来た時のために。白い服を着た海軍士官がやけどが少なかったという話があったので、白い服装にするといい、と8月12日には、国民学校を向上にして白い服の大量生産をやっていた(陸軍の兵隊に着せるために)

質問2:

広島県の出身で、連載の頃から見てた

 この作品に出てくる言葉遣いは、そのまま使うんでしょうか?

 →はだしのゲンをアニメ化した時に広島の子供を連れてきた

  →当時の、となるとちょっと難しいけど、できるだけ頑張ってやっていきたい。広島と呉の違いもある。身近にその違いがわかる人がいる、

ブラックラグーンで、トーチーのモデルになった土地さんが、呉出身の広島育ちの俳優さんで、方言指導してくれる

土地の三のお父さんが海軍の方で、お母さんが当時の看護婦だった

そのお母さんに手で縫い物をやる縫い方を教わった

すずさんのもんぺ上下も作ってくれた。緑時に黄色は作りにくいので、黄色時に緑でもんぺじょうげとぼうくうずきんをつくってくれた

呉に行った時に、それだったらいい写真集とかありますよ、といったら、その人はそんなのだいたい抑えてると思う

何とか通の何丁目がすでに呉の発音になってた、この人はそこまでやってる、と言われた

頑張ってなるべく見よう、とはおもってる

たぶん変わらないとこもあると思う、僕も最初わからなかったのが、新婚時の傘のエピソード。

草津のおばあちゃんが、向こうの家で「傘を一本持ってきたか」「刺してもええ回の」「どうぞ」という。

河野さんに聞いたら、柿の木問答の変形です、と言われた。「柿をちぎってもよいかいな」「どうぞ」

検索:柿の木問答

広島の民俗学の資料を見てたら、傘が出ていた

質問3:

呉の出身で、作品の中で地図を映して原作で説明している場面があるが、遊郭の地名などはアニメでどう表現するのか?

あまり露骨に出すと嫌がる人がいるんじゃないか、とか。

呉市の方が一緒に回ってて、具体的にいるとお家が建っているから難しい

街の名前に着いては、歴史もあるのでしょうがない

この家のところにあれが経っていました、とはいわないようにしたい

これだけ現実と接点のある物語なんだから、接点のあるものは画面に残しておきたい

呉だと本通でも何丁目とかが今と違う

呉は京都と似て、何々通りの何丁目、と碁盤の目に区切られてる、いまは町単位で分かれてる

質問4:

3巻の話で、広の空襲で怪我をしたお父さんのお見舞いに行った帰りに爆弾に合う場面で、海軍病院から帰りに戻って行く途中

「板塀の向こう側に」「丘の向こうに船が見える」ってどこなのか?入舟山の北側を通ると海は見えないはず、具体的にどうなのか?

6月22の爆弾が落ちたエリアの地図を参照

駅に帰っているのかどうかがわからない

それでも船が見えるかどうかが見に行きたい、という話にした

「歴史が見える丘あたりですかね?」「もうちょっと三原小学校側です」

(こまかすぎるくらいのローカルな話題が続く)

民間の土地から海が見えないようにする塀は、木じゃなくてコンクリートの塀になってる。塀のない場所に行けば海が見えたかも

質問5:

最初と最後に出てくる化け物、かれは我々はどう解釈すればいいのか?

書いてある通りに受け止めるしかない。河野さんにきくと「昭和のえろぐろなんせんすなんですよ」と。未輪沢検事とかが好きなので、そういうのと絡めて入っているのではないか

最後の方でもう一回出てくるところは、書いてある通りに受け止めるしかない

河野さんがやっていることは現実の中の一部を切り取るような物語としてつくっていて、投げ出してこうです、と言っていたものを一読者として読み取ったらこうでした、という形になっている。あれについては調べてわかるものではないので、皆さんの心の中にあるしかない

みたいなことをやりつつ、映画を作ってるのかなんだかわからない状態ではあるけど、ちょっとづつ作業を進めたいとは思ってる。

できる限り調べた上で、実際にあったかのように、描く。本当にあった事として書かれていることが、繰り返し読ませる原動力の一つなのかも

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コマの外側をひたすら追い続ける、

ものすごい濃度の聖地巡礼だ…